神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(9):サラミースの海戦

その後のサラミースの戦いの状況は、アイスキュロス作のギリシア悲劇「ペルシアの人々」の中で、敗戦をペルシアの首都スーサに伝える一人の使者の言葉として、叙述されています。この悲劇が上演されたのは、この海戦から8年後のことです。その上演を見るアテーナイの人々は、まだ記憶に新しいこの出来事の体験を、目前によみがえらせられたかのような思いだったことでしょう。

 やがて白馬にまたがる朝の日が、光さやかに大地をあまねく照らしたとき、はじめてギリシアの陣営から声たからかな喜びの歌がわきあがり、島の岩肌がひときわ高いこだまを返した。うらをかかれた恐怖が、われらの胸をつきさした、なぜなら、そのときかれらがうたったパイアン(戦勝祈願の祈り)は、戦いにのぞむ勇気がりんりんとして、逃げ腰ではなかったからです。ラッパのひびきは火のように敵勢を燃えたたせ、号令一下、ざわめく櫓脚はいっせいに閃めき、たちさわぐ波底をうった。息つくまもなく、全船列がわれらの視野にくっきりと浮かびでた。まず右翼の陣が一糸みだれず整然と船あしをすすめ、ついで全船団がすすむとみえるや、いっせいに叫ぶ喚声が耳をうった。
「おおヘラスの子ら*1よ、すすめ!
 祖国に自由を!
 子や妻に自由を!
 古い神々の御社や父らの墓地に自由を!
 すべてはこの一戦できまるのだ。」
 もとよりわれらも口々に喚き叫んでこれに答えた。猶予のいとまはなかった、青銅の舳先で船と船の突合いがはじまったのだ。最初の体当りはギリシアの船、当てられたポイニキア*2の船は高い舳先を叩き折られた、船は船をねらって突進した。はじめはペルシアの船勢も舳先をそろえてくいとめていた。だが無数の船がせまい水路につめかけたため、互いに助けあうことはおろか、味方どうしが青銅の角でうちあう破目となり、船べりの櫓櫂はことごとく破損した。ギリシア勢は賢くもその難をさけ、われらを包囲して、まわりから体当りをつづけた。船体は横倒しになり、海がみえなくなった、船の破片や屍体でうずまったのだ。砂浜も荒磯も屍体のやま、のこった味方の船は、算をみだしてただ漕ぎのがれようとするばかり。敵は鮪か海の獲物をうつように、櫓の折れはしや棒きれでなぐりつけ、背を割った。おうおうという仲間の嘆声は波にまじって海のもをおおい、暗闇が眼をとざすまで続いていた。この悲惨のすべては、たとえ十日ついやそうとも、話すことができません。


ギリシア悲劇 アイスキュロス」の「ペルシアの人々」 久保正彰訳より


さて、この戦いでハリカルナッソスのアルテミシアがどのように戦ったかですが、ヘーロドトスは以下のように書いています。

王の軍勢が大混乱に陥ったあたかもその時機に、アルテミシアの乗った船はアテナイの船の追撃を受けていた。前方には友軍の船があったけれども、アルテミシアの船は敵に至近の距離にあったため、敵船の追撃を逃れることができなかった。遂に意を決して次のような措置をとることとし、決行した結果は見事にそれが成功したのである。すなわちアテナイの船に追跡されたその船は、カリュンダ人とその王ダマシテュモス自ら乗り組んだ友軍の船に激しく突入していった。(中略)アテナイの船の艦長は、その船がペルシア軍の船に突入するのを見て、アルテミシアの船をギリシア船であるか、あるいはペルシア軍からの脱走船で、味方の応援にきたものと思い、方向を転じて他の艦船に向かったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、87 から

戦場のこととはいえ、とんでもないことをやっています。しかも幸運なことに、このことは観戦していたクセルクセースに気付かれませんでした。というのは、クセルクセースはアルテミシアの船が沈没させた船が自軍の船であることに気付かなかったからです。

観戦していた王はその船が突入したのを認めたが、そのとき側近にいたものの一人が
「殿、御覧でございますか。アルテミシアの何という天晴れな戦いぶり、それに敵船を見事に撃沈いたしました。」
といったという。それが本当にアルテミシアの手柄であるのか、というクセルクセスの問いに対して一同は、アルテミシアの船の標識をよく知っているのでそれに間違いはない、そして破壊された船は確かに敵船であったと答えた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、88 から

しかも沈没したカリュンダの船の乗員が一人残らず死んでしまったために、その後このことでアルテミシアを非難する人間が現れなかったという、おまけつきなのでした。

*1:ギリシア人のこと

*2:フェニキアのこと