神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(4):BC 7世紀

イオーニア人入植後のコロポーンについて伝説はあまりありません。それでも何とか拾ってみましょう。


パウサニアースによると、クラゾメナイを建設したイオーニア人グループは、クラゾメナイ建設以前のある時期、コロポーン領内に住み、コロポーン人のパルポロスを迎えて自分たちのリーダーにした、ということです。



それから時代を下ると、ホメーロスがコロポーンの出身である、という説を見つけました。ホメーロスがいつ活躍したのか、その時代も明らかではないですが、BC 9世紀かからBC 7世紀の間のどこかでしょう。この説はコロポーン出身のBC 5世紀の学者アンティマコスが唱えました。唱えた人がコロポーン出身なので、これは身びいきから出た説なのかもしれません。

BC 7世紀の半ば頃、リュディア王ギュゲースが、コロポーンを攻めて市街地を占領しました。この王はリュディアを隆盛に導いた王です。ところで、有名な哲学者アリストテレースの「政治学」の中に、コロポーンはリュディア人との戦争が行なわれる前には多数の人々が莫大な財産を持っていた、という意味の記述があります。

しかしまたこれらの国制を富と自由との二要素だけで定義するのでは充分でない。・・・・富裕者が数の点で優越していることによって支配しているなら、それは寡頭制ではない、と言わなければならない。例えばコロポンにおいて昔はそうであった(何故ならその国では多数のものがリュヂア人との戦争が行われる前には莫大な財産を所有していたから)。むしろ自由人の生れで財産のない者が多数であって支配の主権者である時、それが民主制であるが、しかし富裕で生まれの善い者が少数であってそうである時、それが寡頭制である。


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第4巻4章5節より

アリストテレースがリュディア人との戦争といっているのがいつの戦争のことなのかよく分かりませんが、もしギュゲースによる上記の戦争のことを言っているとすれば、BC 7世紀半ば以前のコロポーンは、よほど裕福な国だったのでしょう。この時代よりあとの時代のことと推測しますが、コロポーン出身の哲学的詩人クセノパネースが、往時のコロポーンの富裕について以下のような詩を残しています。

彼らはリュディア人たちから 役にもたたない贅沢を教えられて、
紫色にそめあげた上衣を身にまとっては いっしょにぞろぞろと、
みなで千人を下らぬ人数で広場(アゴラ)へくり出したものだった――
ふんぞり返り、恰好のよい髪の毛を御自慢に、
いとも妙なる香油のにおいを身にしみこませては。


筑摩書房世界文学大系4 ギリシア思想家集」の「クセノパネス」 藤沢令夫訳より

上の詩で「彼らは」というのは、千人を下らぬ人々を引き連れてアゴラに繰り出していたというのですから、一般市民ではなく貴族の当主たちだったのでしょう。当時、貴族たちがその豪奢を張りあっていた様子が察せられます。


上記のギュゲースによる攻撃より少し前になりますが、BC 7世紀の始め、コロポーン人の一部が政争に負けて、アイオリス人の町スミュルナに亡命したことがありました。この頃のギリシアの多くの都市では王権が衰弱し、有力貴族同士で激しい権力争いが起っていました。そして権力闘争に負けた側は別の都市に亡命するということがよくあったのでした。

内乱を起して敗れ祖国を追われたコロポン人の一隊を、アイオリス人が受け入れてやったことがあった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、150 から

亡命者として受け入れてもらったコロポーン人の一団は、スミュルナに対して忘恩の行いをします。

ところがその後このコロポン人の亡命者たちは、スミュルナの市民が城壁の外でディオニュソスの祭をおこなっているところを見すまして門を閉め、町を占領してしまったのである。アイオリス人は全力をあげてその救援に駆け付けたが、結局協定が成立し、イオニア側は家財一切を引き渡す代りに、アイオリス人はスミュルナを退去することになった。スミュルナ人が協定に従ったので、アイオリスの十一市は分担して彼らを収容し、それぞれの町で市民権を与えたのであった。


同上

ひどいことをするものです。コロポーン人の亡命者たちはアイオリス人の町スミュルナを乗っ取ってしまったのでした。間の悪いことにスミュルナでは、この少し前に城壁を増強したので、一旦城門を閉めてしまうと、攻撃は難しかったのでした。そのため、アイオリス人たちも攻めあぐねたのでしょう。結局、アイオリス人たちはスミュルナを諦めるしかありませんでした。この時からスミュルナはイオーニア系の町になりました。

(上:赤色の文字はアイオリス系、紫色の文字はイオーニア系の町を表す。)