神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(17):包囲の解除

キオスに反乱を勧めた「カルキデウスとアルキビアデース」はその頃どうしていたのでしょうか? アテーナイ軍に海陸を包囲され籠城を余儀なくされているキオスを見て、何かしようとしたのでしょうか? 「(15):キオスの反乱(2)」でご紹介したトゥーキュディデースの記述を再度ここに載せます。

大多数の一般市民はこれを見て驚愕狼狽に陥ったが、貴族派はかねてよりこれを期して、ちょうどこの時に評議会が開催されているように仕組んであった。その場に臨んだ(スパルタの指揮官の)カルキデウスアルキビアデースは論をつくして渡来の主旨を説明し、やがて多数の後続船隊が到着すべく目下その途についていると言った(中略)。これを聞いてキオス人、つづいてエリュトライ人が、アテーナイから離叛した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・14 から


カルキデウスはこの頃すでにこの世の人ではありませんでした。彼は上記のキオスでの反乱への説得のあとミーレートスをアテーナイから離叛させることに成功しましたが、その後、上陸してきたアテーナイ勢との戦いにおいて戦死したのでした。一方、アルキビアデースはというと、こちらは戦死するようなタマではありませんでした。どんな窮地に陥っても何とか抜け道を見つけ出す才能に恵まれていました。おまけに貴族の家柄の出身で金持ちで美男で愛想ががよい、という最強のカードを何枚も手にしたような男でした。この頃アルキビアデースは、スパルタから距離を取り、ペルシア側にすり寄っていました。というのは、彼はスパルタ王のお妃と密通して子供まで産ませたことがあってスパルタ王アーギスの怒りをかっていましたし、この頃になると彼の活躍に嫉妬するスパルタの有力者が増えてきたからです。


今回、スパルタがアテーナイに対して攻勢に出ることが出来たのは、ペルシアが援助の金を出したからなのでした。ペルシアはスパルタに加勢することで、今はアテーナイの支配下にある小アジア西岸のギリシア都市を再び支配しようともくろんだのです。実際に金を出したのは、小アジア西岸の中部と南部を支配する総督のティッサペルネースでした。アルキビアデースはこのディッサペルネースに取り入って、ペルシアの利益を考えるならば、スパルタに加担しすぎるのもよくない。スパルタとアテーナイがこの戦争で共倒れになるのがペルシアにとって一番益になることだ。そのためには、スパルタに約束した兵士たちへの給料を滞らせるのがよい、そしてスパルタに約束したフェニキア海軍の投入を中止すれば、なおよい、と献策しました。こんなわけで、アルキビアデースはキオスの苦境を見ても助けようという気がさらさらなかったのでした。


やがて、アテーナイがキオス市の南のデルピニオンに建設していた要塞が完成しました。スパルタのキオスにおける施政官ペダリトスは意を決して、キオス兵とともにアテーナイ軍を攻撃しました。しかし、この戦いでペダリトスは戦死してしまいます。籠城からそろそろ半年になろうとする頃のことでした。

ペダリトスは直属の傭兵隊と、キオスの全兵員とを引きつれて、アテーナイ側の軍船を守っている防壁にむかって攻撃を敢行し、その一部を占拠、陸あげされている軍船の一部を掌中に収めた。だがこれを見てアテーナイ勢も応戦に駈けつけ、最前列のキオス兵を突き崩し、のこるペダリトス直属の兵士らをも破って勝勢を奪回するに及んで、ペダリトス自身は戦死、キオス勢も多数を殺され、おびただしい数の武器甲冑をアテーナイ勢に奪われた。
 この一戦ののち、キオス側は、以前にもまして厳しく陸海両面からの封鎖を受けることとなり、加えて市内の食糧飢饉は危機を告げていた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・55、56 から


ペダリトスの後任としてスパルタ海軍はレオーンをキオスに送り込みました。アテーナイによる包囲を突破してレオーンの船隊12艘がキオスに入港しました。

キオスでは、アステュオコスがこれをいかにして救援すべきか、その手段に窮している間に、市民らは籠城生活にいたく困憊して、ついに海戦をおこなわざるをえなくなった。アステュオコスがまだロドスにあったころ、キオス人はペダリトスの死後その後任指揮官として、ミーレートスからスパルタ市民レオーン(中略)と、ミーレートス周辺海域の警備に就いていた船隊十二艘を迎えいれていたのである。(中略)キオス勢は国内の陸上総兵力を動員して討ってでると、要害の地域を占拠すると同時に、アテーナイ側軍船三十二艘に対して、味方の軍船三十六艘を一斉に海に乗り浮べて、海戦をおこなった。たちまち激烈な海戦が展開され、戦果においてはキオス勢とその同盟諸勢は優勢を占めていたが(すでに日没に近づいていたためもあって)、かれらはキオスの町にむかって撤退した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・61 から


これがキオスの包囲解除のきっかけになりました。このあとスパルタの別動隊が、キオスより北のヘレースポントスの町々をアテーナイから離叛させるのに成功したため、アテーナイ軍の主力はヘレースポントスに移動し、キオスの包囲はなくなりました。


ところでキオスの救援に消極的だった海軍司令アステュオコスはどうなったかといいますと、給料をもらえずに不満の高まった同盟軍兵士らが暴動を起こし、殺されかけるという事件もありましたが、11人の顧問官に叱責されることもなく、任期を全うしたのちスパルタに帰還したのでした。