神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(12):両陣営の狭間で(2)

国外追放された人々は富裕な人々であったので、その富で兵士を募集したのち、翌年、主導権奪回のためにメーテュムナへ攻めてきました。

メーテュムネー市民の中で、追放刑に附されて町を追われていた、とりわけ富裕な一派の者たちは、キューメーから同派に属する腹心の重装兵約五十名を島に迎え、また大陸方面から傭兵を徴募して、総数約三百を揃えると、古来の血縁にすがってテーバイ人、アナクサンドロスを頭領に頂き、先ず手始めにメーテュムネーに対して攻撃をおこなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・100 から

これに対してアテーナイ側はメーテュムナに駆けつけ、これを撃退しました。

しかしその試みも、ミュティレーネーから駆けつけたアテーナイ兵守備隊の反撃にあって挫折、ふたたび城外で合戦を交えたがここでも敗退を余儀なくされて、メーテュムネーの亡命者一派は山越えしてエレソスに到着、今度はこれをアテーナイから離叛させたのである。


同上

彼ら亡命者たちはメーテュムナをスパルタ側に寝返りさせることには失敗したのですが、代わりに同じレスボス島の町エレソスを寝返りさせたのでした。ここにもアテーナイ船隊が駆けつけましたが、エレソスはすでに防備を固めていたため上陸して交戦するのをためらい、海上から監視するに留まりました。メーテュムナも軍船を出して監視に参加しました。


その後、メーテュムナはトラシュロスに率いられた55隻のアテーナイ艦隊を受け入れます。スパルタの海軍司令ミンダロスがミーレートスからキオス島に移動したことを察知したトラシュロスは、ミンダロスがヘレースポントス海峡に向かうのを警戒しておりました。ヘレースポントス海峡は黒海方面からアテーナイに穀物を供給するための航路であるので、万一ここをスパルタ側に押さえられたらアテーナイは降伏せざるを得なくなるからでした。そのためトラシュロスはメーテュムナに寄港し、ミンダロスがキオスから出航するのを狙って海戦に持ち込もうとしていました。そしてミンダロスの動きを監視していたのですが、ミンダロスがキオスに留まっているようなのでトラシュロスはエレソス攻撃に加わりました。ところがミンダロスの艦隊はキオス入港の翌々日にはヘレースポントス海峡に向けて出港していたのでした。トラシュロスがこのことを知ったのは、ミンダロスの艦隊がヘレースポントスに着いたあとでした。

レスボスのアテーナイ勢は、偵察隊に手抜かりがあろうとは夢にも知らず、よもや敵船隊が自分たちの警戒網に触れることなく沿岸を通過できようとは思っていなかったので、急ぐこともなく攻城戦を続けていたが、事実を知るやいなや、即刻エレソス攻撃を抛棄して急遽ヘレースポントス守備の途についた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・103 から

このあとしばらく戦場はヘレースポントスに移り、レスボス島は現状維持が続きます。


5年後のBC 406年、メーテュムナはまたしてもスパルタ側の攻撃を受けました。スパルタの将軍カリクラティダス率いるペロポネーソス同盟軍はメーテュムナを猛攻して陥落させました。この時メーテュムナにはアテーナイ兵が駐留していましたが、その兵力も陥落を防ぐには役立ちませんでした。メーテュムナの全ての財産は戦利品として押収され、捕虜となったメーテュムナ人とアテーナイ人はアゴラ(市場)に集められました。ペロポネーソス同盟軍からは「メーテュムナ人はアテーナイ人と同様に奴隷として売り払うべきだ」という声が上がりました。しかしカリクラティダスは「ギリシア人はなるべく奴隷になるべきではない」と答えました。翌日、アテーナイの駐留兵は奴隷に売られましたが、メーテュムナ人捕虜は解放されました。



このあとカリクラティダスはアルギヌーサイの海戦でアテーナイ軍に敗北し、戦死してしまいます。しかしメーテュムナが忠誠を守って来たアテーナイには、この勝利を活用する能力がありませんでした。というのは当時、衆愚政治が進んでいたアテーナイの民会は、この海戦の時に沈没または大破した軍船の乗組員たちの救出を怠った、という理由でこの海戦の時の将軍たちを処刑してしまったのです。将軍たちは当時嵐が吹いていて乗組員たちを救出したくても出来なかったと弁明したのですが、そのことに耳を貸す人々は少なかったのでした。一時の憤激にとらわれて有能な将軍たちを処刑してしまうのですから、アテーナイの敗北は決定したようなものでした。その後アテーナイは戦略的なミスを犯し、2年後のBC 404年に降伏しました。