神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモトラーケー(10):サモトラケのニケ


サモトラーケーの町自体は、歴史においてあまり活躍するところがありませんでしたが、偉大なる神々の聖地の名声はギリシア世界を越えて広まりました。そして、この聖地では、ヘレニズム時代、ローマ時代を通じて建造物が増えていきました。有名な彫像サモトラケのニケ(サモトラーケーのニーケー)もこの聖域に建てられたもので、ヘレニズム時代に作られたものでした。ニケ(長音を省略しないならば「ニーケー」)というのは古代のギリシア語で「勝利」の意味です。つまりこの彫像は勝利を擬人化した(擬神化したと言うべきでしょうか?)女神ニーケーの彫像です。サモトラケのニケの彫像が立っている土台は、船首の形をしています。私は今回調べるまで知らなかったのですが、サモトラケのニケの像の高さは2.44mもあるそうです。私は今まで等身大の彫像を想像していました。船首の形をした土台を含めれば5.57mになるそうです。この彫像は、おそらく何らかの海戦での勝利を祝い、それをサモトラーケーの偉大なる神々に感謝するために作ったものでしょう。しかし、これが誰のどの海戦の勝利を祝ったものなのかというと、それには定説がないようです。



サモトラケのニケは今では、パリのルーブル美術館に展示されています。この像は1863年にフランスの領事館員シャルル・シャンポワゾによってサモトラーケーの偉大なる神々の聖域で発見されました。発見された時にギリシアはすでにオスマン・トルコから独立していましたが、サモトラーケー島はまだオスマン・トルコ領でした。彼が発見した時、この像は割れていくつかの部分に分れていました。さらに多数の破片がありました。これらの部分や破片からこの像は修復されて現在の形に復元されたのですが、それには長い年月がかかりました。英語版のWikipediaの「サモトラケのニケ」の項によれば、1950年にも破片の発見があったようです。

1950年。カール・レーマンの指揮の下、ニューヨーク大学アメリカ人発掘隊が1938年のサモトラーケー島の偉大な神々の聖域の探検を再開しました。1950年7月、彼らはルーブル美術館のキュレーターであるジャン・シャルボノーを自分たちの作業に参加させ、彼はニケの遺跡で彫像の右の手のひらを発見しました。1875年のオーストリアの発掘調査以来、ウィーンの美術史美術館に保存されていた2本の指が、この手のひらに再び取り付けられました。その後、手のひらと指はルーブル美術館に寄託され、1954年から彫像とともに展示されています。


英語版のWikipediaの「サモトラケのニケ」の項より

右の手のひらの部分が現地から発見されたことで、ウィーンの美術史美術館に保管されていた2本の指が、サモトラケのニケのものだと判明したわけです。


サモトラケのニケの復元には、BC 3世紀の硬貨に刻印された図像が参考にされました。下のような硬貨の図像です。

これはマケドニア王デーメートリオス1世が発行した硬貨です。そのため、サモトラケのニケをデーメートリオス1世が奉献したしたものとする説がありました。しかし、彼の時代にサモトラーケーは彼の領有するところではなかったそうで、この説は消えました。次にデーメートリオス1世の子アンティゴノス2世ゴタナスが奉献したものとする説が出ました。この説によれば、この像はアンティゴノス2世がコース島沖でエジプト王プトレマイオス2世の海軍を破ったことを記念して奉献されたということです。このコース島沖の海戦に勝ったことでマケドニア王国はギリシアを勢力下に納めました。サモトラーケー島もこのあとずっとマケドニア王国の支配の下にありました。サモトラケのニケがこのコース島沖の海戦の勝利を記念したものかどうかは断言出来ませんが、サモトラーケーの偉大なる神々を代々のマケドニア王が信仰し尊重していたのは、遺跡からもその証拠が出ています。そのマケドニア王国もアンティゴノス2世ゴタナスの孫ピリッポス5世の時に新興のローマ(この時はまだ共和制)に敗れてしまい、ギリシア本土への影響力を失ってしまいます。それはBC 197年のキュノスケパライの戦いでのことでした。BC 167年、ピリッポス5世の息子ペルセウスが王の時にマケドニア王国は滅亡し、BC 146年にはローマの属州になります。その後のローマの共和制末期の動乱が過ぎ、ローマが帝国となっていわゆるローマの平和が確立される時代になると、サモトラーケーの偉大なる神々の聖域には帝国のさまざまな地方から巡礼者がやってくるようになりました。サモトラーケーの聖域が閉鎖された時期ははっきりしませんが、キリスト教ローマ帝国の国教となったAD 4世紀頃のようです。


以上で、私のサモトラーケーについての話は終わります。読んで下さり、ありがとうございます。

サモトラーケー(9):ペラスゴイ人(2)

このようにペラスゴイ人はルウィ語を話す人々だ、と断言したいところですが、気になることもあります。それは、レームノス島から出土したギリシア語ではない碑文の存在です。この碑文の文字はギリシアのアルファベットですが、書かれている言葉は明らかにギリシア語ではありませんでした。現代の学者はこの言語をレームノス語と名付けました。一方、ヘーロドトスはレームノス島にペラスゴイ人が住んでいたことを記しているので、ペラスゴイ人はレームノス語を話していたと想定したくなります。しかしレームノス語はルウィ語とはまったく異なる系統の言語であることが明らかになっています。というのは、レームノス語はエトルリア語という古代のイタリアに住んでいた民族の言語と親縁関係が確認されたからです。レームノス語もエトルリア語インド・ヨーロッパ語族の言語ではありません。こうなるとペラスゴイ人の言語が何だったのか分からなくなってきます。私にはどう解決してよいか分かりませんが、レームノス島に住んでいたレームノス語を話す民族と、ルウィ語を話していた他地域のペラスゴイ人をヘーロドトスが区別出来なかった可能性があるのではないか、と考えています。



(右:レムニア語の石碑)


ここで英語版Wikipediaの「ペラスゴイ人」の項を見てみると、ペラスゴイ人の言語についてさまざまな説が紹介されています。まずは、ペラスゴイ人が実はギリシア語またはそれに類似した言語を話していた、とするもの。次に、アナトリアの諸言語のどれかを話していた、とするものです。ルウィ語は、この中に入ります。ここにはパルナッソスというギリシアの地名をルウィ語の単語パルナ(意味は「家」)と関連付ける説が紹介されています。その他にはトラキア語、あるいはアルバニア語、あるいはインド・ヨーロッパ語族ではあるが未だ知られていない言語とする説が紹介されています。その他にも、まだ未解読でクレータ島で使われていたミノア語や、コーカソス諸語に属する言語とする説も紹介されています。レームノス島の碑文のことも少し触れられています。


ヘーロドトスはペラスゴイ人の言葉は、ギリシア語とは異なっていたと書いています。

ペラスゴイ人がどういう言語を話していたかについては、私には確かなことは判らない。しかし今も残存するペラスゴイ人――例えばテュルセノイ人(エトルリア人)の北方にある町クレストンに住み、かつては今のテッサリオティスの地に定住していたドーリス族と境を接していたペラスゴイ人、さらにヘレスポントスのプラキア、スキュラケの二市を建設し、同地でアテナイ人と共住していた同族のものたち、さらに右のほか、後に名称を変えたが本来はペラスゴイ族であった諸都市の住民等――によって判断してよいのならば、彼らの言語は非ギリシア語であったらしい。


ヘロドトス著「歴史」巻1、57 から

こうやって見ると、ペラスゴイ人が話していた言語をルウィ語と想定する説は、それなりに有力なように思えます。


ところで、ヘーロドトスは彼の時代のギリシア人の大半が元々はギリシア民族ではなくペラスゴイだったと主張しています。古代のギリシア人をさらに細分するとイオーニア人、ドーリス人、アイオリス人、アカイア人などに分れますが、このなかでイオーニア人とアイオリス人は以前はペラスゴイ人だったとヘーロドトスは言います。特にイオーニア人に含められるアテーナイ人については以下のように書いています。

なおアテナイ人は、ペラスゴイ人が現在のギリシア(ヘラス)の地を占有していた頃は彼らもペラスゴイ人で、クラナイオイ人の名で呼ばれていた。ついでケクロプス王の時代にはケクロピダイ(「ケクロプス一族」)と称し、エレクテウスが王位を継ぐに及んでアテナイ人と名を変え、さらにクストスの子イオンがアテナイの軍司令官となったとき、その名にちなんでイオニア人と呼ばれることになったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、44 から

しかし、アテーナイ人が元々はペラスゴイ人だったとすると、ヘーロドトスが別のところで記している以下の内容をどう解釈したらいいのか、私には分からなくなります。

アテナイ人は当時既にギリシア人の数に加えられていたが、そこへペラスゴイ人が移ってきてアテナイの国土に共に居住することになったもので、それ以来ペラスゴイ人もギリシア人と見做されるようになった。カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から伝授を受けて行なっているものであるが、この密儀を許されたものならば、私のいわんとするところが判るはずである。というのは、アテナイ人と共住するに至ったペラスゴイ人は、以前サモトラケに住んでいたもので、サモトラケ人は彼らから密儀を学んだものだからである。


ヘロドトス著「歴史」巻2、51 から

ここではアテーナイ人とペラスゴイ人が異なる種族のように描かれています。これはアテーナイに元々住んでいたペラスゴイ人がギリシア化したのちに、サモトラーケーから別の、ギリシア化していないペラスゴイ人がやってきて、彼らものちにギリシア化したということなのでしょうか? ペラスゴイ人とギリシア人の関係には謎が多いです。

サモトラーケー(8):ペラスゴイ人(1)

話はサモトラーケーから離れてしまいますが、ペラスゴイ人とは何者なのか、自分なりに追及してみたいと思います。もちろん、専門家の間でもペラスゴイ人がどのような民族なのかいまだに分かってはいない問題なので、私の想定など根拠はほとんどないことでしょう。


まずホメーロスの「イーリアス」には、トロイアに味方する者たちとしてペラスゴイ人が登場します。

またヒッポトオスは槍に名だたるペラスゴイのうからやからを
率いて来た、土くれの沃(こ)えたラリッサに住居する 者らであるが、
その人々を率いるのはヒッポトオスに ピュライオスとて軍神の伴(とも)、
ペラスゴイ人テウタモスの裔 レートスが二人の息子といわれる。


ホメーロスイーリアス」第2書 840~850行あたり 呉茂一訳 より

このことと、神話ではサモトラーケー出身のダルダノスの子孫がトロイアの王家になっていることや、ヘーロドトスがサモトラーケーにかつてペラスゴイ人がいたと書いていることなどから、トロイア人とペラスゴイ人は同族かあるいは似たような種族ではなかったか、と私は推測します。私はトロイア人がインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派のルウィ語という言語を話していたと推測しているので、ペラスゴイ人もルウィ語かそれに似た言語を話していたのではないか、と思います。ところで、ヘーロドトスやトゥーキュディデースはペラスゴイ人をギリシアの原住民であるように書いています。つまり、サモトラーケーやトロイアだけでなく、ギリシア本土にもペラスゴイ人が元々住んでいたとしています。2人は次のように書いています。

現在のギリシア――以前はペラスギアと呼ばれていたもので、この二つは同じである――


ヘロドトス著「歴史」巻2、56 から


(上:古代文書に現れるペラスゴイ人の居住地)

現在「ヘラス(=ギリシアのこと)」の名で呼ばれる土地に住民が定着するようになったのは、比較的に新しい時代のことである。これより古くは、住居は転々として移り、個々の集団は、より強大な集団によって圧迫されると、そのつどそれまで住んでいた土地を未練なく捨てて、次の地に移っていった。(中略)
思うに「ヘラス」という、国の名前すらはじめは存在していなかったらしい。デウカリオーンの子ヘレーン以前には、事実この名称は全く存在せず、個々の部族名、なかんずくペラスゴイ族の名が、各々の住む土地の名称として用いられていた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・2~3 から

するとルウィ語を話す人々がかつてはギリシア全土に住んでいたのでしょうか? これを支持するような記述を風間喜代三著「印欧語の故郷を探る」に見つけました。

ルウィ語の話手の場合
 アナトリアではヒッタイト語族とは別に、むしろそれより早くこの地に入ったと思われる集団がいた。それはルウィ語の話手である。彼らの言語資料は、ヒッタイト帝国時代のものは楔形文字でしるされた断片だが、そのほかに紀元前十世紀から八世紀ごろの象形文字による碑文が残されている。彼らはアナトリアの西部から南部に居住していたらしく、その中心はヒッタイト文書においてアルザワ国と呼ばれている地域であった。
 現在のトルコの南西部にあって非常に古い先史時代の遺跡を残すベイチェスタンの、紀元前二千年ころの層から出土した粘土の印章に認められる象形文字が、後のルウィ語の話手のもったものと同じ文字の伝統につながるとすれば、彼らは後のヒッタイト語の形成者たちとは別個の集団として、この地に侵入してきた人たちと考えられる。彼らはヒッタイト語の話手たちとのかかわり以上に早くから西のほうに目をむけていた。というのは、古代ギリシアにはLarissaとかParnassosのように、-ss-という接尾辞をもった地名が、Crinthosのような-nth-をもった地名とともに、数多くみられる。そして、同じこの接尾辞をもった形が、ヒッタイト文献の記録する小アジアの地名にも多い。例えば、アルザワ国のなかにもApassa, Hattarassa, Maddunassaなどがある。これはルウィ系の言語の話手が、後のギリシア人の地に早くに進出していたことをうかがわせるものである。歴史時代のギリシア語が、言語としては印欧語の形態を保ちつつ、多くの外来語の要素を加えて形成されたものであることを思うと、その中には小アジアからもかなりの要素が吸収されたに違いない。


風間喜代三著「印欧語の故郷を探る」より

ギリシア人より先にルウィ語を話す人々が小アジアからギリシア本土に広く住んでいて、彼らがペラスゴイ人とのちに呼ばれるようになった。そしてペラスゴイ人よりあとになってギリシア人がおそらく北方から侵入してきた、というのが私の想定です。

サモトラーケー(7):入信の儀式

サモトラーケーの秘儀で礼拝を受けていた神々をカベイロイと呼ばず、偉大なる神々と呼んだほうがよさそうですが、では偉大なる神々とは何なのかと言われると私には答がありません。なので、もうこれ以上サモトラーケーの秘儀の神々について書かないほうがよいように思います。


神話によればサモトラーケーの秘儀は、イーアシオーンとダルダノスの兄弟が創始したということです。ダルダノスは、トロイアに移り住んだのちトロイア人にこの密儀を教えたともいいます(イーアシオーンとダルダノスについては「(1):はじめに」に書きました。)。神々のことは書かない方が、と思ったのですが、こういう神話を知ると、この神々はトロイアと関係があるのかな、とか、古典期のギリシア人はトロイアプリュギアを混同することがあるので、サモトラーケーの神々はやはりプリュギア起源なんだろうか、などと考えてしまいます。一方、ヘーロドトスが伝えている、この密儀はペラスゴイ人ギリシア人に伝えたもの、という説も私には捨てがたい気がしています。ペラスゴイ人ギリシアに元から住んでいた民族で、その言語はギリシア語とは違っていたとヘーロドトスは述べています。さらにヘーロドトスは、ドーリス族は元々ギリシア語を話す種族だったが、イオーニア族もアイオリス族も元来はペラスゴイであり、のちになってギリシア語を話すようになってギリシア人と見なされるようになった、と書いています。そうするとペラスゴイ人ギリシア人と別の民族だったにしてもギリシア人に密接に関連した民族だったということになりそうです。

(上:聖域にある舞踏の浮彫)


死んだ妻を取り戻すために冥界まで降りて行ったというオルペウスもこの密儀に深く関わっていたという話もあります。イアーソーンと仲間たちが東の涯コルキス(今のジョージア)に黄金の羊の毛皮を取りに行った際、オルペウスもこの冒険に参加したのですが、彼はイアーソーンと仲間たちにサモトラーケーの密儀に入会させたといいます。歴史の確かな時代の話として、有名なアレクサンドロス大王の父親フィリップ2世と母親オリュンピアスが出会ったのは、サモトラーケーの密儀の時だったといいます。

伝えられるところでは父フィリッポスはサモトラケで母オリュンピアスとともに密儀に入信し、彼はまだ若年で、この娘は両親がなかったが、これを恋してその兄アリュッバスを説得してすぐに婚約した。


プルータルコス「アレクサンドロス伝」2 井上一訳より


(上:ヒエロン。偉大なる神々の聖域)


さて、この入信の儀式(入会の儀式)ですが、英語版Wikipediaの「サモトラーケーの神殿群」の項に儀式の情報が載っていました。

サモトラーケーの密儀に特有な特徴は、その開放性でした。エレウシスの密儀と比較して、入会には年齢、性別、地位、国籍の前提条件がありませんでした。誰もが、男性と女性、大人と子供、ギリシア人と非ギリシア人、自由人であれ奉公人であれ奴隷であれ参加することができました。また、入会は特定の日に限定されておらず、入信者は同じ日に2つの連続した密儀の位を得ることができました。実際、唯一の条件は聖域にいることでした。


入会式の最初のステージはミュエーシスでした。神聖な説明と特別なシンボルがミュステース、つまり入会者に明らかにされました。 このようにして、ヘーロドトスはヘルメス・カドミロスの男根像の重要性に関する啓示を与えられました。ウァロによれば、この機会に明らかにされたシンボルは天と地を象徴していました。秘密にされたこの啓示の見返りに、入会者はいくつかの特権の保証を与えられました。より良い生活、より具体的には海での保護、そしておそらくエレウシスのように、あの世での幸せの約束を願っています。儀式の間、入会者は、保護のお守りであると思われる腰の周りに結ばれた深紅色のたすきを受け取りました。磁石の神聖な力にさらされた鉄の輪は、おそらく入会式の間に与えられたもうひとつの保護の象徴でした。


入会式の準備は、アナクトロン(意味は貴族院)の南にある小さな部屋で行われました。それは一種の聖具室であり、ここで、入会者は白い服を着て、ランプを与えられました。次に、ミュエーシスはアナクトロンで行われました。それは、すでに入会式を経験した多数の忠実な人々を収容できる大きなホールで、彼らは壁に沿ったベンチに座って式典に出席したのでしょう。入会者は南東の角にある盆地で洗浄の儀式を行い、次に円形の穴で神々に献酒をしました。式典の終わりに、入会者は主扉に面した丸い木製の台に座り、彼の周りでは儀式の踊りが行われました。それから彼は北の部屋、聖域に連れて行かれました。そこで彼が正式の啓示を受けました。この聖域への入場は、入会者でない者には禁止されていました。入会者には、秘儀への彼の入会を証明する文書が渡され、少なくとも後の時代には、お金を払って、記念の盾に彼の名前を刻印してもらうことができました。


英語版Wikipediaの「サモトラーケーの神殿群」の項より

サモトラーケー(6):カベイロイ(2)

次に、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述にあった「前5世紀以後航海者の保護神とも考えられ、この点から彼らはディオスクーロイと同一視されるにいたった。」という点について検討してみます。ディオスクーロイというのは星座のふたご座で知られるギリシア神話に登場する双子の英雄カストールとポリュデウケースのことです。彼らは船乗りたちの守護神と考えられていました。カベイロイがディオスクーロイと同一視された、ということは、カベイロイは2柱である、と少なくとも当時の信者一部には思われていた、ということです。実際、サモトラーケーでは、漁師たちや船乗りたちがサモトラーケーの神々を信仰していました。

賑わいのある海路にサモトラーケー島が位置するため、信仰は特に人気があり、多くの場合非常に控えめな供物がそこに行く途中で見つかりました。発掘調査により、船乗りや漁師たちが提供する貝殻や釣針が見つかりました。彼らは海の危険から彼らを守ってくれた神々に感謝していたようです。


英語版Wikipediaの「サモトラーケーの神殿群」の項より

しかし、これは前回紹介した「アルゴナウティカ」の古注にある、カベイロイは4柱である、という情報と矛盾してしまいます。では、同じく神話辞典にあった「オルペウス教の影響でボイオーティアのテーバイ市ではカベイロイの年長者(=ディオニューソス)と子供(名前は明らかではありませんが)の二人の形で崇拝された。」という記述は、どう考えたらよいでしょうか? この説ではやはりカベイロイは2柱になりますが、その正体はカストールとポリュデウケースではなくて、酒の神ディオニューソスとその子になっています。一方、パウサニアースが「ギリシア案内記」の9.25.6でテーバイのカベイロイについて記していますが、そこではカベイロイの正体はディオニューソスとその子ではなくて、人間に火をもたらしたというプロメーテウスとその子アイトナイリスだと言っています。

しかし、テーバイ人が儀式の起源であると言っていることの全てを私が述べるのを妨げるものは何もありません。彼らは、かつてこの場所にカベイロイと呼ばれる住民がいる都市があり、デーメーテールはカベイロイの一人であるプロメーテウスとその息子アイトナイリスを知るようになり、彼らに何かを託しました。彼らに託されたものとそれに起こったことを書くことは、私には罪のように思えますが、とにかくその儀式はカベイロイへのデーメーテールの贈り物です。


パウサニアース 「ギリシア案内記」 9・25・6より

ここには「カベイロイと呼ばれる住民」がいたとも言っていて、そうだとするとカベイロイの数はもっと多数だということになります。一方、神話辞典には「またカベイロイはサモトラケーの英雄イーアシオンとダルダノスとも同一視されている。」とも書かれていました。こうして、カベイロイとは何か、という問いに対する答は、調べるほどにより遠くなっていくように見えます。

(上:カベイロスであるとされる画像)


ヒュー・ボーデンの「名無しの神々」には、今までの考察を吹き飛ばすような事実が書かれていました。

さらに重要な点は、碑文史料がこの主張(=サモトラーケーで崇拝されているのがカベイロイであるという主張)を支持していないということである。サモトラケの碑文では、神々が、テオイ(神々)、テオイ・メガロイ(偉大なる神々)、テオイ・ホイ・エン・サモトライケイ(サモトラケにおわします神々)、それからテオイ・サモトライケス(サモトラケの神々)と呼ばれており、こうした呼び名は全て、同島以外から出土した碑文でも確認されている。これに対して、カベイロイに捧げられた碑文となると、サモトラケ島ではこれまで一つも出土していない。


ヒュー・ボーデン著「名無しの神々」より

古代の地理学者ストラボーンもこんなことを書いています。

多くの著作家は、サモトラーケー島で崇拝されている神々をカベイロイであると特定していますが、彼らはカベイロイ自体が誰であるかを言うことが出来ていません。


ストラボーン「地理書」7の断片50

サモトラーケーの秘儀の神々はカベイロイでない可能性も出てきました。サモトラーケーの秘儀を探る試みはなかなか困難です。

サモトラーケー(5):カベイロイ(1)

前回ご紹介した、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述の、根拠になるものを探していたところ、ネット上にキングス・カレッジ・ロンドンのヒュー・ボーデン教授の「名無しの神々」という報告(訳:佐藤 昇)という資料を見つけました。その中にロドスのアポロドーロス作の「アルゴナウティカ(=アルゴー号の冒険物語)」に付けられた古代の注のことが出ていました。この注は、カベイロイについてかなりの情報を提供しています。

まずヘレニズム時代に書かれた叙事詩「アルゴナウティカ」を解説する古代の注釈者は、サモトラケの「偉大なる神々」に対して、完璧なアイデンティティを付与しているように思われる。

ムナセアスの言によれば、サモトラケでは「カベイロイ」に対する秘儀が行われている。数にして4柱いる、かの神々の名前は、アクシエロス、アクシオケルサ、アクシオケルソス、<カスミロス>である。アクシエロスはデメテルであり、アクシオケルサはペルセフォネアクシオケルソスはハデスである。4番目に加えられたカスミロスは、ディオニュソドロスによれば、ヘルメスである。カベイロイという呼称は、この神々がもともと居た、フリュギアのカベイラ山に由来するものと思われている。また、カベイロイというのは2柱で、年長の方がゼウス、年若の方がディオニュソスだと主張する者もいる。
(ロドスのアポロニオス第1歌917行に対する古注)


ヒュー・ボーデン著「名無しの神々」より

ここから「ギリシアローマ神話辞典」に書かれていた「さらに四人のばあい、その名はアクシエロス、アクシオケルサー、アクシオケルソス、カドミロスであって、おのおのギリシアデーメーテール、ペルセポネー、ハーデース、ヘルメースであるともいわれる。」という記述の裏付けを見いだすことが出来ます(カスミロスとカドミロスの違いはありますが)。さらに「ギリシアローマ神話辞典」にはカベイロイが「プリュギアの豊饒神」であると書かれていますが、カベイロイがプリュギアの神々であるという根拠はどうも上の古注の「カベイロイという呼称は、この神々がもともと居た、フリュギア(プリュギアに同じ)のカベイラ山に由来するものと思われている。」という箇所にありそうです。


では、豊饒神であるという点についてはどうでしょうか? これはヘーロドトスの以下の記述が根拠になっているようです。

ギリシア人が勃起した男根を具えたヘルメス像を造るのはエジプト人から学んだのではなく、ギリシアではアテナイ人がはじめてこれをペラスゴイ人からとり入れ、アテナイから他のギリシアへ広まったものである。アテナイ人は当時既にギリシア人の数に加えられていたが、そこへペラスゴイ人が移ってきてアテナイの国土に共に居住することになったもので、それ以来ペラスゴイ人ギリシア人と見做されるようになった。カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から伝授を受けて行なっているものであるが、この密儀を許されたものならば、私のいわんとするところが判るはずである。というのは、アテナイ人と共住するに至ったペラスゴイ人は、以前サモトラケに住んでいたもので、サモトラケ人は彼らから密儀を学んだものだからである。そのようなわけでギリシアではアテナイ人がはじめて、男根の勃起したヘルメス像をペラスゴイ人から学んで作ったのである。これについてはペラスゴイ人の間に聖説話が伝えられているが、その内容はサモトラケの密儀において示されている。


ヘロドトス著「歴史」巻2、51 から


「勃起した男根を具えたヘルメス像」というのは畑の豊饒祈願や境界の保護、魔除けなどを目的として建てられました。これをアテーナイ人がペラスゴイ人から学んだことを上の引用は言っています。そしてこのペラスゴイ人はそれ以前にサモトラーケーに住んでいて、この像についての神話がサモトラーケーの密儀で示されている、ということです。ここからカベイロイが豊饒神であるという説が出来たのでしょう。

しかし、このヘーロドトスの文章によればカベイロイの起源はペラスゴイ人の神々ということになり、先に述べたようなプリュギアの起源という説と対立してしまいます。また、やっかいなことにペラスゴイ人とは何者なのか、ということが現代まで分かっていません。英語版Wikipediaの「カベイロイ」の項目を見ると、

ギリシア神話では、カベイロイは、謎めいた地下的なの一群の神々でした。彼らは、ヘーパイストスと密接に関連する秘教で崇拝されていました。これは、北エーゲ海レームノス島と、おそらくサモトラーケー島(サモトラーケー島の神殿複合体)とテーバイを中心にしています。それらの遠い起源では、カベイロイとサモトラーケーの神々は、ギリシア以前の要素、またはトラーキアの、あるいはエトルリアの、ペラスゴイの、プリュギアの、ヒッタイトのような他の非ギリシアの要素を含む可能性があります。


英語版Wikipediaの「カベイロイ」の項より

とあって、プリュギア起源である可能性も、ペラスゴイ起源である可能性も残しており、歯切れが悪いです。

サモトラーケー(4): ヘーロドトスの密儀入会

サモトラーケーの町の事績についてはこれ以上あまり話すことを持ち合わせていません。それで話をサモトラーケーの秘儀のほうに持っていきたいと思います。


ペルシア戦争が終わったのち、歴史家のヘーロドトスはペルシア戦争に至るまでと、ペルシア戦争の経緯を書き残すために、ギリシア世界のみならずエジプトやペルシアにも足を延ばして調査をしました。ヘーロドトスはその著作の中で、自分がサモトラーケーの密儀に参加したことをほのめかしています。

カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から伝授を受けて行なっているものであるが、この密儀を許されたものならば、私のいわんとするところが判るはずである。というのは、アテナイ人と共住するに至ったペラスゴイ人は、以前サモトラケに住んでいたもので、サモトラケ人は彼らから密儀を学んだものだからである。


ヘロドトス著「歴史」巻2、51 から


上の引用にある「私のいわんとするところ」が何かについては今は気にしないで下さい。注目して頂きたいのは、サモトラーケーの密儀を許されたものならば私が何を言っているのか分かってくれるはずだ、というヘーロドトスの言い方です。これは自分もサモトラーケーの密儀を目の当たりにしていなければ言えないことではないでしょうか? そこでヘーロドトスがサモトラーケーの密儀に参加したことがあるということを前提にして、彼の記述からサモトラーケーの密儀の正体を探ることにします。


上の引用にはいろいろな情報が含まれています。サモトラーケーの密儀はカベイロイの密儀とも呼ばれていること、この密儀はペラスゴイ人が元々行っていた儀式であること、そしてペラスゴイ人がサモトラーケー人にこの儀式を伝授したこと、がそうです。まず、カベイロイというのは何でしょうか? ヘーロドトスは別の箇所で1回だけカベイロイについて言及しています。

(ペルシア王)カンビュセスは、祭司以外の者は立入りが禁止されている、カベイロイの聖所へも侵入し、その神像をさんざんに愚弄した挙句、焼き払うという暴挙まで敢えてした。カベイロイの像もヘパイストスの像によく似ており、カベイロイはヘパイストスの子と伝えられている。


ヘロドトス著「歴史」巻3、37 から

ここからカベイロイは神の名前であることが分かります。ギリシア語で語尾がoiのものは複数形を現しますから、正確にはカベイロイは「神々」の名前です。そして、カベイロイはヘーパイストスの子であるとしています。ヘーパイストスというのはギリシア神話に登場する鍛冶屋の神です。ただし、注意しないといけないのは、(上の引用箇所だけでは分かりませんが)実はこの記事の述べている場所はエジプトだということです。ヘーロドトスを始め古代のギリシア人は、他民族の信仰する神々を自分たちの信仰する神々の名前を当てはめて呼んでいました。例えばここに登場するヘーパイストスはエジプトの工芸の神プタハのことです。ヘーロドトスがここで「カベイロイの聖所」と言っているのも本当はエジプトで信仰されていた神格のはずです。ですので、この記事からカベイロイの正体を探るのはあまりよい方法ではないかもしれません。

(上:サモトラーケーの密儀の建物の遺跡)


そこで、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項目を調べたところ、以下のように書かれていました。

カベイロイ
プリュギアの豊饒神。前5世紀以後航海者の保護神とも考えられ、この点から彼らはディオスクーロイと同一視されるにいたった。その祭は秘儀であり、そのためその名を直接に呼ぶことをさけて、ギリシアでは「大神」とも呼ばれた。崇拝の中心はサモトラーケーの島であるが、レームノス島小アジア、またオルペウス教の影響でボイオーティアのテーバイ市ではカベイロイの年長者(=ディオニューソス)と子供の二人の形で崇拝された。神話ではヘーパイストスとカベイロー(またはその子カドミロス)より三人のカベイロイが生れ、その娘たちがカベイリデスであるとも、彼女たちは三人のカベイロイの姉妹ともいう。カベイロイの数も三、四、七人と諸説があり、さらに四人のばあい、その名はアクシエロス、アクシオケルサー、アクシオケルソス、カドミロスであって、おのおのギリシアデーメーテール、ペルセポネー、ハーデース、ヘルメースであるともいわれる。またカベイロイはサモトラケーの英雄イーアシオンとダルダノスとも同一視されている。彼らの系譜や数に関して上記のように一致がないのは、彼らの崇拝が密儀であり、その名もまた秘密であったためのと考えられる。彼らは、レアーの従者の中に数えられ、コリュバースたちやクーレースたちと同一視されていることもある。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」より

この内容については、さらに検討していきます。