神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ヘルミオネー(12):ペルシア戦争

やがてクセルクセース王率いるペルシアの陸軍と海軍がギリシアの北から南下してきました。ところが、ヘルミオネーはペルシアの脅威に対して最初はあまり認識を持っていなかったように見えます。

少なくとも、陸におけるテルモピュライの戦いと海におけるアルテミシオンの海戦の時点では、ヘルミオネーは陸にも海にも軍勢を送っていません。隣国のトロイゼーンはアルテミシオンに5隻の三段橈船を派遣しているのとは対照的です。ほかの日和見の諸国と同じようにヘルミオネーは、今はオリュンピア大祭(つまり、オリンピック)の時期だから、という口実で兵を出さなかったのかもしれません。オリュンピック開催中は休戦するしきたりになっていたからです。しかし、このようにして諸国が兵を出さなかったために、ペルシア陸軍にテルモピュライの峠を突破されてしまいます。テルモピュライを守っていたスパルタ軍が、王レオーニダースを始めとして全員玉砕したのはこの時です。


ギリシアの水軍は撤退して、今度はアテーナイ沖のサラミース島付近でペルシア軍を待ち受けます。この時になって、やっとヘルミオネーは軍船を3隻派遣しました。

水軍に加わった町々は次のとおりである。まずペロポネソスからはスパルタ人が16隻、コリントス人はアルテミシオンの折と同数の船(40隻)を出した。シキュオン人は15隻、エピダウロス人は10隻、トロイゼン人は5隻、ヘルミオネ人は3隻を出した。右の町々の住民は、ヘルミオネ人を除いては、いずれもドーリスおよびマグドノイ系の民族で、エリオネス、ピンドスおよびドリュオピス地方から最も遅く(ペロポネソスに)移ってきたものたちである。ヘルミオネ人は本来ドリュオペス人で、ヘラクレスとマリス人によって今日ドーリスと呼ばれる地方から追われてきたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、43 から

これらはペロポネーソスから出動した軍船であって、他の地域からもぞくぞく軍船が派遣されました。中でもアテーナイは180隻もの軍船を出動させています。


一方、陸上においてもスパルタが中心となってコリントス地峡でペルシア軍を食い止めようとしていましたが、そこにもヘルミオネーは軍勢を派遣していました。

国を挙げて地峡の防衛に馳せ参じたギリシア諸国は次のとおりである。スパルタ人にアルカディアの全兵力、エリス人、コリントス人、シキュオン人、エピダウロス人、プレイウス人、トロイゼン人、ヘルミオネ人らがそれで、いずれも危機に瀕したギリシアの運命を憂い来援したものであった。それ以外のペロポネソス諸国は、オリュンピア、カルネイアの祭はすでに終っていたにもかかわらず、これに全く無関心であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、72 から

彼らはここに長城を築いたのでした。


さて、サラミースの海戦はギリシア側の快勝になります。しかし、その海戦でヘルミオネー軍がどう戦ったのかは伝えられておりません。また、コリントス地峡のほうは、ペルシア軍がサラミースの敗戦に驚いて撤退を始めたため戦争にならずに済みました。


翌年のプラタイアの戦いでは、ヘルミオネーは300名の戦士を参加させています。

・・・・つづいてミュケナイ軍とティリンス軍合せて400、さらにプレイウス人部隊1000がこれに続いた。その傍らに構えたのはヘルミオネ軍300で、ヘルミオネ軍に接してはエレトリア軍ステュラ軍合せて600、続いてカルキス軍400・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻9、28 から


このプラタイアの戦いと、これと同じ日に起きたミュカレー沖の海戦で、ペルシア側は決定的に敗北します。ヘルミオネー軍の活躍は記録には残っていませんが、彼らがペルシアの攻撃を撃退するのに一役買ったのは確かなことだと思います。


こうしてギリシアの独立に寄与したヘルミオネーでしたが、ペルシアの脅威が去ったあと、北方のアルゴスによって占領され、住民は追放されてしまいます。ヘルミオネーはドーリス人の町になってしまいました。その後、ヘルミオネーはアルゴスから独立しますが、ドーリス人の町のままだったようです。ヘルミオネーはローマ帝国の時代にはヘルミニウムと呼ばれて、その存続が確認出来るのですが、ドリュオペス人が追放されたこの時点で、私のヘルミオネーに関する物語を終えようと思います。