神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ヘルミオネー(11):ラソス

ヘルミオネーがヒュドレイア島をサモス人たちに売却して数年後のことですが、アテーナイで活躍するヘルミオネー出身の詩人がいました。彼の名はラソスでした。この頃、アテーナイを支配していたのはペイシストラトスの子ヒッピアスでした。彼の弟のヒッパルコスは占い師のオノマクリトスをひいきにしていました。このオノマクリトスという男はムーサイオスという神話的な予言者の託宣集を編纂したことがありました。ラソスは、その託宣集の中にオノマクリトスが自分で作った神託を勝手に挿入しているのを証拠を挙げて指摘した、ということです。どういう証拠をつかんだのかは、伝えられておりません。とにかく、このためヒッパルコスは、それまでひいきにしていたオノマクリトスをアテーナイから追放したのでした。

追放の理由は彼が「レムノス附近の島々は海中に没すべし」という託宣を、ムサイオス託宣集に勝手に挿入した動かぬ証拠をヘルミオネのラソスにおさえられたからであった。ヒッパルコスはそれまで彼とはきわめて懇意の間柄であったが、右の理由で彼を追放に処したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、6 から


その後ラソスは、テーバイからアテーナイにやってきた才能豊かな青年ピンダロスの抒情詩での先生になったということです。ピンダロスはその後、詩人としてギリシア世界に名を轟かせるようになります。一方、ラソスについては、その後の情報がありません。



(左:ピンダロス


BC 490年にはペルシア王ダーレイオスによる1回目のギリシア侵攻、いわゆる第1次ペルシア戦争がありました。この時、ヘルミオネーは静観を決めていたようです。


10年後のBC480年のペルシア王クセルクセースによる第2次ペルシア戦争の時は、実は、上に登場した占い師のオノマクリトスが戦争の発端に一枚絡んでいたということです。この時は、オノマクリトスがアテーナイを追放されてから35年ぐらい経っているのですが、自分を追放したヒッパルコスの一族とも和解し、この一族の頼みで一緒にペルシア王国の首都スーサに上って、クセルクセース王に謁見した、というのです。


この35年の間に、情勢は大きく変わりました。オノマクリトスを追放したヒッパルコスはその後まもなくアテーナイ市民に暗殺されました。その兄でアテーナイの僭主だったヒッピアスは、スパルタの干渉によって政権を明け渡し、ペルシアに亡命しました。彼はアテーナイの支配権を取り戻すためにペルシアの力を借りようとしますが、それが実現する前に亡くなります。その子孫がやはりアテーナイの支配権の奪回を図って、ペルシア王クセルクセースにギリシア侵攻を献策したのでした。その際オノマクリトスを同行したのは、彼の託宣集の中から都合の良い神託を取り出して聞かせて、クセルクセース王にこの侵攻が成功する、という希望を吹き込もうと考えたからでした。

 さてこのオノマクリトスがこの時一行(=ヒッピアスの一族)とともに上京してきたが、大王(=クセルクセース)に謁するごとに、ペイシストラトス家(=ヒッピアスの一族。ペイシストラトスはヒッピアスの父)の者たちはさかんに彼(=オノマクリトス)のことを吹聴し、彼も自分の託宣集からいくつかの託宣を選び出しては大王によんで聞かせたものであった。ペルシア人にとって香(かん)ばしくない内容のものは一切省いて語らず、相手にとって縁起のよいものばかりを選び出して聞かせたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、6 から




(左:ペルシア大王クセルクセース)


クセルクセースがギリシア侵攻を決意するにあたっては、上に述べたようなことも後押ししていたのでした。