プリエーネー(6): イオーニアの反乱
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プリエーネーはペルシアによってその市民が奴隷に売られるという悲運に遭いました。一方、他の都市はどうだったかといいますと、まずミーレートスはすでにペルシアと協定を結んでその支配下に入っていたので安全でした。他の諸都市は、翌年、ペルシアの将軍ハルバコス(彼はメディア人でした)の攻撃を受けました。その中でテオースとポーカイアの住民は町を捨てて移住しましたが、その他の諸都市はハルバコスによって征服されてしまいました。
隷属に甘んずることを潔しとせず祖国を離れたのは、右の二つの町(テオースとポーカイア)だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、みな離国組と同様にハルバコスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれの祖国に留まり、ペルシアの命に服することになったのである。ミレトスだけは前にも述べたように、直接(ペルシア王)キュロスと協定を結んでいたので戦火を免れていた。
こうしてイオニアは再度隷従の憂目を見たのであるが、ハルバコスが大陸のイオニア諸市を征服すると、島に住むイオニア人たちもこれに恐れをなして、自発的にキュロスに降伏してしまった。
ヘロドトス著「歴史」巻1、169 から
こんな時にプリエーネーの賢人ビアスがパンイオーニオンの議会にやってきました。プリエーネーがパクテュエスと一緒にペルシアに反乱を起こした時に、ビアスはどうしていたのでしょうか? 彼は危険を察知してプリエーネーを離れていたのかもしれません。
イオニア人が悲運に陥った後も、相変わらずパンイオニオンに集まっているのを見て、プリエネの人ビアスがイオニア人にとってきわめて有益な意見を述べた、と私は聞いている。もしイオニア人が彼の意見に従っていたら、イオニア人はギリシアで最大の繁栄を誇ることができたであろうと思われる。ビアスの勧告というのは、イオニア人は一致団結して海路サルディニアへ移り、ここに全イオニア人の町を一つ建設せよというもので、かくすれば世界最大の島に住んで近隣の住民に号令し、隷従の悲運を免れて繁栄できるであろう、彼らがイオニアに留まる限り、自由が訪れる見込みはもはやない、とビアスはいったのである。
ヘロドトス著「歴史」巻1、170 から
サルディニアは今のイタリアのサルデーニャ島です。この時もちろんこの島が無人島であったわけがなく、様々な民族が町を作って住んでいました。そこへ押しかけて町を作ろうとするのですから、元から住んでいた住民と軋轢が出る(場合によっては戦争になる)のは覚悟の上です。それでも、サルディニアの住民はペルシア軍よりはるかに弱いとビアスは考えたのでしょう。結局、イオーニア人たちはビアスの意見を採用しませんでした。
その後40年以上イオーニアの諸都市はプリエーネーを含めてペルシアの支配下でおとなしくしていました。ペルシア王もキューロス、カンビュセース、ダーレイオスと変わっていきました。プリエーネーも戦争の傷跡を修復して、それなりに繫栄しておりました。ところが、BC 499年、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こすと、他のイオーニア都市とともにプリエーネーも反乱に参加してしまいました。かつて不用意に反乱に加担してひどい目にあったことを記憶している世代の人々はきっと少なくなっていたのでしょう。この反乱に参加しなければ、また悲惨な目に遭わずにすんだのですが、そうはなりませんでした。
この反乱はBC 494年まで続きます。反乱に参加したイオーニアの諸都市のいくつかはペルシアの攻撃を受けて脱落していき、BC 494年の時点では、ミーレートス、サモス、キオス、プリエーネー、テオース、ポーカイア、エリュトライ、ミュウスが残っていました。ミーレートス沖のラデー島付近で最後の海戦が行われました。これをラデーの海戦と呼びます。この時、プリエーネーは12隻の軍船を派遣していました。一方、反乱の主導者であったミーレートスは80隻の軍船を出していました。ここからミーレートスとプリエーネーの国力の差が推測できます。ちなみに派遣した軍船の数が最も少なかった町はミュウスとポーカイアでともに3隻の軍船を派遣していました。
(上:ラデーの海戦の位置)
このラデーの海戦でプリエーネーの戦いぶりがどうだったのかをヘーロドトスは書いていません。いずれにせよ、イオーニア連合海軍は敗れ、陸上ではペルシアの陸軍によってミーレートスが陥落したのでした。ミーレートスの陥落後、すぐにプリエーネーも占領されてしまったようです。
かくしてイオニアは三たび隷属の憂目に遭ったのであるが、この三回のうち最初はリュディア人によるものであり、あとの二回はペルシア人によるものである。
ヘロドトス著「歴史」巻6、32 から
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