神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(7):ディオニューシオス(1)


40年余り、ペルシアの支配下でおとなしくしていたポーカイアでしたが、BC 499年に南のミーレートスが首謀者になってペルシアに対して起こした反乱にはポーカイアも参加しました。後世イオーニアの反乱と呼ばれた反乱です。この反乱は6年間続きました。その間に、首謀者だったミーレートスアリスタゴラースが逃亡する、という事件が起こっています。そして指導者不在になったところに、ペルシア軍が反乱の本拠地ミーレートスに攻めてくる事態になりました。これを知って、ポーカイアを含むイオーニア諸都市は、代表者をミュカレーにある全イオーニア会議に送って対策を協議させました。その結果、以下が議決されました。


やがてイオーニア諸都市の艦船がラデーに集結しました。同じギリシア人ですがイオーニア系とは異なるアイオリス系のレスボス島の住民も艦船を派遣しました。こうして353隻の艦船がラデーに集結したのでしたが、そのうちポーカイアが派遣出来たのはたった3隻でした。1世紀前には遠洋航海のパイオニアだったポーカイアが、今では3隻しか軍船を派遣出来ないほど、国力を落としていたのでした。しかし、数は少なくてもポーカイアの艦船は操船の練度では一番でした。その司令官の名前をディオニューシオスといいます。

やがてラデに集結したイオニア軍の集会が開かれ、席上こもごも立って弁じた中で、ポカイア軍の司令官ディオニュシオスが次のような注目すべき発言をした。
イオニア人諸君、今やわれわれの運命は、自由の身を保てるかあるいは奴隷となるか――それもただの奴隷ではない。脱走した奴隷の境遇に陥るかどうかという、まさに剃刀の刃の上にある状態といってよい。そこでもし諸君に耐える志があるならば、さしあたっては苦しくとも、必ずや敵を制して自由の身となることができるであろう。しかしながら万一にも安逸を事とし無統制に流れるようなことがあれば、諸君が(ペルシア)大王からら反乱の咎めを蒙らずにすむ望みはまずないものと思う。さればどうか私のいうところに従い、諸君の身柄を私に一任せられたい。そうすれば、神々がわれわれと敵に公平であられる限り、私は諸君に確約してもよい、敵は戦いを仕掛けてこぬか、もし仕掛けてきても大敗を喫するであろうと。」


ヘロドトス著「歴史」巻6、11 から

このディオニューシオスの言葉に席上の司令官たちは賛成したので、ディオニューシオスは翌日からイオーニア軍将兵に対して猛烈な操船訓練を課したのでした。

彼は演習の都度、船を一列縦隊にして進め、艦船相互に船間突破の訓練を行わせて漕ぎ手の習熟をはかるとともに、艦上戦闘員はいつも実践装備で待機させるというやり方で、演習の後も船は海上に碇泊させておき、イオニア軍を終日酷使したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、12 から

イオーニア軍の将兵は7日の間はディオニューシオスの言うことを聞いていたのですが、8日目には訓練に耐えられなくなりました。

「一体どの神様にさからった祟りで、われわれはこんな苦労をせねばならぬのであろう。たった三隻しか船を出しておらぬあのポカイアのいかさま師めに、われわれの身柄をあずけてしまったとは、われわれも気がふれて頭がどうかしていたに違いない。あの男がわれわれを手中におさめて以来、われわれに対する扱いは、生命(いのち)とりともいうべき乱暴至極なものじゃ。現に仲間のうちすでに大勢のものが病み患っておるし、これから先同じ目に遭いそうなものも数多くいる。今のこの苦しみに比べれば、ほかのどんな苦労もましであろう。ゆくゆく奴隷にされてどんなにこき使われるかは知らぬが、今の酷使にいつまでも甘んじているよりは、そちらを辛抱する方がよい。さあみんな、これからはあんな男の指図はきくまいぞ。」
 こういうと、それからはピッタリと誰一人命令に従おうとするものがなくなり、陸上部隊なみに島内に天幕を設営して日陰で起居し、乗船を拒み演習にも参加しようとしなかった。


同上


一方、ペルシアの海軍はすでにミーレートス水域に達しており、艦船の数は600隻でした。ペルシア人自体は陸の民であったので、この海軍を構成しているのはペルシアに服属している海に強い諸民族であり、その主力はフェニキアでした。ほかにキリキア人、エジプト人ギリシア人であるキュプロス島の人々もペルシア海軍に参加していました。