神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(3):初期のキオス

キオス建設以後の話に戻ります。例によってこの頃の歴史についてはほとんど分かりません。英語版Wikipediaの「キオス」の項には

少なくとも紀元前11世紀までに、島は王によって支配され、その後の貴族制(または恐らく僭主制)の統治への移行は、次の4世紀のどこかで発生しました。

とあります。私はこの記述にどれほどの根拠があるのか疑問に思います。一般に古代ギリシアの多くの都市は最初は王制で、次に貴族制になった。そしてその中の一部の都市は、僭主制や民主制も経験した、とよく説明されるのですが、本当のところはどうなのでしょうか? アテーナイが王制、次に貴族制になり、その次に僭主制、そして民主制に移行したことは、アテーナイでの文献資料が豊富なので、それらによって跡付けることが可能ですが、その他の都市ではどうなのでしょうか? 私には答えがないので、この疑問はそのままにしておきます。そのほかに初期のキオスで述べるべきことは、キオスがイオーニアの12都市同盟の一員だったということです。イオーニアの12都市同盟の参加都市は、以下の都市です。


この12市同盟は、エペソスの建設者であったアンドロクロスが組織したものだという説があります。この12市はサモスから目と鼻の先の大陸側にあるミュカレーに、「ヘリケーのポセイドーン」に捧げたパンイオニオン(全イオーニア)という神殿を建てて礼拝していました。ヘリケーというのは、ペロポネーソス半島の北側にある都市の名前です。かつてここはイオーニア人の土地だったのですが、アカイア人に追い出されてしまったのでした。そのヘリケーで祭っていた海神ポセイドーンをここに移して祭ったのです。


同じ12都市同盟内の都市であるとしても敵対関係はあるもので、キオスはその東の大陸側にある都市エリュトライとずっと通商上の競争関係にありました。キオスがエリュトライと戦争したことはヘーロドトスの歴史に断片的な記事として出てきます。

イオニア諸都市の内、ひとりキオスを除いては、ミレトス人のこの戦争に援助しようとする都市は一つもなかった。キオス人は以前エリュトライアと戦った際ミレトス人が加勢してくれたことに恩義を感じ、同じような行為によって報恩しようと、彼らを援助したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、18 から

このミーレートス人の戦争というのはリュディア王国との戦争のことで、これはBC 7世紀後半に起きました。ですので「キオス人は以前エリュトライアと戦った際」という戦争はそれ以前の話になります。その戦争にミーレートスがキオスの加勢をしたので、ミーレートスとリュディア王国との戦争に今度は、キオスがミーレートスに加勢した、ということです。


英語版Wikipediaの「キオス」の項によれば、BC 9世紀にキオス島にエウボイア島の人間とキュプロス島の人間がいたことが分かっているそうです。また、BC 7世紀にはキオスは貨幣を鋳造し始めたそうです。そしてコインにおけるキオスのシンボルはスフィンクスだったそうです。



(キオスのシンボルである、スフィンクス