神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポテイダイア(8):開城


(上:ポテイダイアを上空から見たところ)


ポテイダイアの包囲が始まったのはBC 432年の夏でした。それから2年経ったBC 430年の夏もまだ包囲は続いていました。この頃、アテーナイ本国では流行病がはやっていました。流行病はポテイダイア攻略に援軍に来た部隊にも拡がってきて、アテーナイ軍を苦しめました。

同夏、ペリクレースの同僚指揮官であった、ニーキアースの子ハグノーンとクレイニアースの子クレオポンポスは、先の遠征でペリクレースの麾下にあった軍勢を与えられて、ただちにトラーキア地方のカルキディケー人、ならびに当時なお籠城兵の立てこもっていたポテイダイアにたいして兵をすすめた。軍勢は現地に到着すると、ポテイダイアの城壁を破るために攻城装置を用いるなど、あらゆる手段をつくしてこれを攻略することを試みた。しかしなお、城市を奪うことはできず、さまざまの手立ても何ら思わしい成果をあげることがなかった。なぜならば、すでに此の地においても疫病がアテーナイ勢を襲い、兵士の戦闘力を奪ってかれらを散々な窮地に追いやったからである。そしてついには、先頃から現地にいた攻城軍の兵士らまでが、それまで健康であったのに、ハグノーン麾下の後者の兵士らから感染して罹病することとなった。(中略)このような事情のため、ハグノーンはわずか四十日にも満たぬ間に、四千名の重装兵のうち一千五十名を病気のために失って、海路アテーナイに引きかえした。先頃からの攻城将士は現地附近にとどまってポテイダイアの包囲戦を続行した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻2・58 から

このように包囲するアテーナイ側も苦労を舐めていましたが、ポテイダイア側の苦難はさらに大きいものでした。ポテイダイア支援に奔走していたコリントス人アリステウスがアテーナイ側に捕えられて、処刑されたのは、この同じ夏のことでした。これはポテイダイアにとって大きな痛手でした。この年の冬、ポテイダイアはとうとう力がつきてしまいました。

同冬、ポテイダイアの市民はもはや籠城に堪えていくことができなくなった。望みをかけていたペロポネーソス勢のアッティカ侵入もアテーナイ勢にポテイダイアの囲みを解かせることができず、糧食はその前に尽きていた。そして城内では緊迫した食糧事情のためにさまざまの容易ならない事態が生じたが、人が人肉を食するという極端な例さえ事実おこった。ことここに至ってポテイダイア市民は城市を取巻くアテーナイ勢の指揮官、エウリーピデースの子クセノポーン、アリストクレイデースの子ヘスティオド-ロス、カリマコスの子パーノマコスらのもとに、降伏条件の申入れをおこなった。アテーナイ側の指揮官らも、凍寒きびしいこの地域で攻城軍将士がいたく難渋しており、またこの作戦がすでに二千タラントンの国費を費消しつくしているのを知っていたので、ポテイダイア側の申入れを諒承した。そこで、次の条件にもとづいて、開城の談判が成立した。すなわち、ポテイダイアの市民、婦女子、子供、ならびに城内にあった援兵は、外衣一枚を携えて退去すること、ただし婦女子は外衣二枚の携行がゆるされる。また路銀として一定額の銀貨の帯出がゆるされる、というのであった、こうしてポテイダイア市民は休戦の保証をあたえて城市をあとに、カルキディケー地方はじめ、各人それぞれ落ちのびる宛をもとめて去っていった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻2・70 から

籠城に疲れたポテイダイアの市民は冬空の下、外衣1枚と一定額のお金の持参を許されて、町を去っていきました。その運命は充分に悲惨なものでしたが、前線から遠く離れた本国のアテーナイ人はさらに苛酷なことを考えていました。

本国のアテーナイ人は、現地の指揮官らが本国の認承なくして条件付降伏を許したことを非難した(かれらは、ポテイダイアに無条件降伏を強いるべきであったと考えたからである)。


同上

現地にいない人間は、悲惨な光景を見ていない分、苛酷な処置に対する躊躇が少なくなるのかもしれません。さて、ポテイダイア陥落後も、アテーナイを中心とするデーロス同盟とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟の戦争(ペロポネーソス戦争)は、まだ続きます。そしてこのあと多くの町々が、アテーナイによって、あるいはペロポネーソス勢によって陥落させられます。そこでは、男子全員が処刑されるなど、より厳しい処置がなされることも多々ありました。そういう意味ではポテイダイア市民の場合はまだ幸運なほうだったと思われます。


BC 600年頃にコリントス人によって建設されたポテイダイア、海神ポセイドーンにちなむ名を持つポテイダイアはこうして200年弱の歴史を閉じました。のちに、アテーナイはこの町に自国民を植民させて町を復興させますが、これは別の歴史として扱うべきものでしょう。以上で、私のポテイダイアについての話は終わります。読んで下さり、ありがとうございます。


(右:ポテイダイアのコイン)