神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポテイダイア(3):ペルシアの支配のもとで

ポテイダイアがペルシアの支配下に入ったのは、イオーニアの反乱が鎮圧されたあとのBC 492年のことのようです。この年ペルシアは、イオーニアの反乱で影響力が落ちたトラーキア地方を再度征服しつつ西に進み、マケドニアを攻めて服属させました。

彼ら(ペルシア人たち)はできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。というのはマケドニアより手前のペルシア寄りに住む民族は、すでにことごとく隷従していたからである。
 遠征軍はタソスからさらに進んで大陸の沿岸沿いにアカントスに達し、アカントスを発してアトス半島を回航しようとした。


ヘロドトス著「歴史」巻6、44 から

アトス半島を回ろうとしたペルシアの海上部隊は、このあと嵐に会って遭難し、ポテイダイアのあるパレーネー半島まで来ることは出来ませんでした。

ところがアトス沖を航行中、ほどこす術もないほど猛烈な北風が激しく吹きつけ、艦船多数がアトス岬に打ち当てられた。伝えられるところでは、艦船約三百隻が破壊され、人員の喪失は二万人を超えたという。


同上

しかし、ペルシアの陸上部隊は、ポテイダイアより西に位置するマケドニア領内に入ったとヘーロドトスは記しています。この時にペルシアの軍隊の一部はパレーネー半島にも進んだことでしょう。そしてこの時、ポテイダイアはペルシアに服属したのだと思われます。



2年後のBC 490年、ペルシア王ダーレイオスは、部下に命じてギリシアのアテーナイとエレトリアの2都市を攻略させました。というのはこの2都市はBC 499年のイオーニアの反乱に加担したからです。前回アトス半島を巡って海軍が遭難して大きな被害が出たことを気にしたため、今回はもっと南のエーゲ海のまん中を島伝いに進んでアテーナイとエレトリアに向いました。しかし、この時のペルシアの進攻は、マラトンの戦いでアテーナイによって撃退されました。その後まもなくしてダーレイオスは死亡し、息子のクセルクセースがペルシア王に即位しました。BC 480年クセルクセースは、ギリシア本土を征服するために自ら海軍と陸軍を率いて進軍しました。その途中、このあたりをペルシア軍が通過した際には、ポテイダイアは兵力の供出を強要されました。

さてクセルクセスはドリスコスを発してギリシアに向ったが、征旅の途中で次々に出会う者を強制的に従軍せしめた。


ヘロドトス著「歴史」巻7、108 から

クセルクセスの海上部隊は、アンペロス岬からパレネ全地域中で最も海中に突出している部分であるカナストロン岬に向け最短距離をとって直行し、その後ポテイダイア、アピュティス、ネアポリス、アイゲ、テランボス、スキオネ、メンデ、サネの各市から船舶と兵員を徴用した。右の諸都市はいずれも、古くはプレグラ、現在はパレネと呼ばれている地方に所在する町である。


ヘロドトス著「歴史」巻7、123 から

こうしてペルシア軍は行く先々で兵力を徴用していったので、雪だるま式に兵力が増加していきました。その大軍がギリシア本土を南下していったため、多くのギリシア人が自分たちの運命を悲観しました。しかし、アテーナイ沖のサラミースの海戦でギリシア側は奇跡的に勝利します。ペルシア王クセルクセースは思わぬ敗北に驚き、慌ててペルシアに撤退しました。クセルクセス王とその取り巻きの部隊は再びポテイダイアの北を、今度は東に向かって通過していきました。ペルシアの部隊が通過し終わると、ポテイダイアを始めとするパレーネー半島のギリシア諸都市は、いっせいにペルシアに反旗を翻しました。しかし、これは早計でした。というのはヨーロッパとアジアの境と考えられていたヘレースポントス(=ダルダネス海峡)までペルシア王クセルクセースを見送ったあとギリシア側に引き返してきたペルシア軍部隊があったからです。