神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポテイダイア(2):初期の歴史

ポテイダイアの創建の様子の想像を続けます。ポテイダイアへの植民団の団長には英雄ヘーラクレースの子孫とされる人物が任命されたと想像します。というのは、コリントスからの植民については、そのような例が多いからです。例えば上に述べたエピダムノスへの植民の際(再植民ではないほうです)には、ヘーラクレースの子孫とされるパリオスという人物が団長に任命されたということです。

エピダムノスに植民したのはケルキューラ人であるが、その植民地開祖には、古くからの慣習にしたがって、ケルキューラ市の母国コリントスから、コリントス市民でヘーラクレースを祖とするエラクレイデースの子パリオスが招かれてその任にあたった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・24 から

また、シシリー島(当時の呼び名では「シケリア島」)にあるコリントスの植民市シュラクーサイ市(現代名シラクサ)を建設したのもヘーラクレースの子孫とされる人物でした。

コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3 から


では、ポテイダイアが創建されたあと、どのようなことがあったのか想像していきましょう。ポテイダイアはコリントスの交易ネットワークの一部として活動していたと思います。さて、ポテイダイアのあるカルキディケー地方は、トラーキア地方の一部と考えられていました。ということはこの地方の原住民はトラーキア人だったということになります。トラーキア人は交易相手としてはあまり魅力のある相手ではなかったようです。もっともトラーキア人奴隷というのはギリシア世界でよくある話だったので、奴隷がトラーキアとの重要な交易品だったのかもしれません。一方、トラーキア人の傭兵というのは残忍なことで有名だったようです。ペロポネーソス戦争の頃の話ですがトゥーキュディデースは以下のような記事を書いています。

ミュカレーソスの町中に乱入したトラーキア兵らは、住居や神殿を次々と破壊、人の姿を見れば老人であれ年若い者であれ、何の見境いもなく手あたり次第に惨殺し、子供や婦女たちまで刃にかけた。(中略)これというのは、トラーキア人種は、勇気に駆りたてたれると、残虐きわまる流血行為をなすからであり、その点では異民族の中でも最たるものに匹敵する。


トゥーキュディデース著「戦史」巻7・29 から


(右:トラーキア人の兵士)


さて、トラーキア人の居住地の北にはパイオニア人という種族が住んでいましたが、この種族についてはあまり情報がありません。ヘーロドトスによれば、彼らは自分たちをトロイア人と同族だと考えていたということです。


また、トラーキアの西にはマケドニアがありました。マケドニア人は南のギリシア人のようにポリス(都市国家)を作っておらず、大きな領土を持つ国家を形成していましたが、話す言葉は南のギリシア人とあまり変わらない言葉を話しており、こちらはトラーキア人とは異なって、交易の相手としては良かったようです。おそらくポテイダイアはコリントスの対マケドニア交易の拠点となっていたのではないかと思います。ポテイダイアが建設されたBC 600年頃、マケドニアはまだそれほど領土を広げてはいませんでした。しかしこの半世紀後には、ポテイダイアの近くまで領土を広げていきます。やがてポテイダイアを含むカルキディケー半島はマケドニア領になっていくのですが、それはずっとのちのBC 4世紀のことでした。このほかにポテイダイアの交易相手としては、エーゲ海に点在する多くのギリシア系都市がありました。


創建してから80年までのポテイダイアについて、以上のように想像しました。もっと具体的な像が結べるとよかったのですが、出来ませんでした。


BC 546年にリュディア王国の首都サルディスがペルシア軍によって陥落し、リュディア王国が滅び、代わってペルシアが小アジアエーゲ海沿岸まで領土を広げます。その後、ペルシアは南に向かってエジプト王国とバビロニア王国を滅ぼしてその旧領を併合します。BC 513年頃に北のスキュティアを併合しようとしますが、それには失敗します。その代り、西に進んでトラーキアを征服しました。ペルシアの脅威がポテイダイアに近づいてきました。

ペリントス(ギリシア系都市のひとつ)人は自由のために勇敢に戦ったが、メガバゾス指揮下のペルシア軍は、大軍勢にものをいわせて、これを制圧してしまった。ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく(ペルシア)大王に帰属させた。トラキアを平定せよという指令を、(ペルシア王)ダレイオスから受けていたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、2 から