神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(9):ハリカルナッソスへの植民

トロイゼーンの王家については何も分かりませんでしたが、一方、ピッテウスがトロイゼーンにやってくるより以前の王であるアンタスの子アイティオスの子孫はこの頃まで存続していたようです。パウサニアースによればアンタスの子孫がトロイゼーンからハリカルナッソスへ植民したと伝えています。

彼らは、ヒュペレースとアンタスに至るまで、後の王について何も知りません。彼らはポセイドーンとアトラースの娘アルキュオネーの息子たちであると彼らは主張し、国にヒュペレイアとアンテアの町を設立したと付け加えました。しかし、アンタスの息子であるアイティオスは、父親と叔父の王国を受け継いで、都市の1つをポセイドニアと名付けました。 トロイゼーンとピッテウスがアイティオスのもとにやってきたとき、1人ではなく3人の王がいましたが、ペロプスの息子たちは力の均衡を楽しんでいました。
これがその証拠です。 トロイゼーンが死んだとき、ピッテウスは住民を集め、ヒュペレイアとアンテアの両方を新しい町にまとめました。彼はそれを自分の兄にちなんでトロイゼーンと名付けました。その後多くの年が経って、アンタスの子アイティオスの子孫がトロイゼーンから入植者として派遣され、カリアにハリカルナッソスとミュンドスを設立しました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.30.8~9より

下の地図にハリカルナッソスとミュンドスの位置を示します。


一方、英語版のWikipediaのハリカルナッソスの項を見てみると、ハリカルナッソスの住民が、あるいは少なくともその一部の人々がアンテアダイ(=アンテスの子孫)と自称していたことが書かれていました。

ハリカルナッソスの創設は、さまざまな伝説の中で議論されています。しかし、彼らはそれがドーリス人の植民地であるという点で同意し、メデューサアテーナー、ポセイドーンの頭、またはトライデントなどのコインの図像は、母都市がトロイゼーンとアルゴスであったという言明を支持しています。住民は、ストラボーンが述べたように、ポセイドーンの息子であるアンテスを伝説的な創設者として受け入れたようであり、アンテアダイの称号を誇りに思っていました。


英語版Wikipediaの「ハリカルナッソス」の項より

ここでは「ポセイドーンの息子であるアンテス」と書かれていますが、これはパウサニアースが伝える「アンタス」のことでしょう。というのは、パウサニアースは上の引用でアンタスのことを「ポセイドーンとアトラースの娘アルキュオネーの息子」と説明しているからです。


ハリカルナッソスは(そしてミュンドスも)ドーリス系の町なので、ハリカルナッソスへの植民は少なくともトロイゼーンにドーリス人が到来したのちのことになります。ここから、アンタスの子孫がドーリス人の到来以降まで存続していたことが推測されます。ところでミュンドスについてですが、ハリカルナッソスとは違ってこの町はそれほど有力な町にはならなかったようです。このあたりのドーリス系都市の同盟である6都市同盟にハリカルナッソスは参加していますが、ミュンドスは参加していないので、そのように推測しました。6都市同盟に参加したのはハリカルナッソスのほかには、クニドス、そしてコース島のコース、ロドス島のリンドスイアーリュソス、カメイロスです。


一方、BC 1世紀のローマの建築家ウィトルウィウスは、ハリカルナッソスへの植民について、別の伝説を伝えています。

メラスとアレウアニアスがアルゴスとトロイゼンから共同で植民したとき、バルバロイのカリア人やレレゲス人を追出した。それで彼らは山へ逃げ、集合してギリシア人を襲っていた。しかし、その後、植民者の一人がサルマキス泉の近くに良い宿屋を建てた。そこの水が良質であったため、それに引きつけられて原住民が宿屋へ来るようになって、ギリシア人と交わることになり、野蛮な習性を棄てて文明化した。


ウィトルウィウス「建築書」 二巻・八章、一二
藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」による引用を孫引き

この引用からはよく分かりませんが、メラスがアルゴス人でアレウアニアスがトロイゼーン人だったのでしょうか。もしそうだとすると、このアレウアニアスという人物が、海神ポセイドーンの息子アンテスの子孫アンテアダイの一人だったのでしょうか? そこのところはよく分かりません。