神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(8):ドーリス人の登場

トロイア陥落時、アイトラーはテーセウスの息子たちデーモポーンとアカマースによって救出されたと伝えられています。アイトラーは自分の孫たちに助けられたのでした。その後、トロイゼーンにどんなことがあったでしょうか?


この頃トロイゼーンはアルゴス支配下にあったようですが、そのアルゴスの王ディオメーデースがトロイアから帰ってきました。ディオメーデースは無事帰国出来たことを感謝してトロイゼーンにアポローンの神殿を建立しました。

この囲いの中に船乗りのアポローンの神殿があり、これはトロイアから戻る途中ギリシア人たちを襲った嵐を乗り越えたこと感謝してディオメーデースが建立したものです。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.32.2より

このディオメーデースの次にアルゴスの王になったのはディオメーデースの妻の弟キュアニッポスで、彼が子を残さないまま没したため、遠縁のキュララベースが王位を継ぎました。しかしキュララベースも後継者を残さないまま没したので、隣国ミュケーナイの王オレステースがアルゴスを支配したといいます。


このオレステースがミュケーナイの王位に就くよりも以前のこと、彼は自分の母親を殺したために復讐の女神たちに追われて諸国をさまよっていました。彼が母親を殺したのは、母親が夫のミュケーナイ王アガメムノーンを殺したからで、オレステースにとって母親は、父親の仇でもあったのでした。このオレステースが諸国をさまよっている際に、トロイゼーンにもやってきたということです。

(上の絵は、ウィリアム・アドルフ・ブグローの「オレステースの後悔」)

アポローンの聖域の前には、オレステースの小屋と呼ばれる建物があります。彼が母親の血を流したので、彼が清められるまでトロイゼーンの市民は彼を自分の家に迎え入れませんでした。それで彼らは、彼を清めている間、清めを終えるまで、彼をここに泊まらせて、彼に娯楽を与えました。現代まで、オレステースを清めた人々の子孫は、決められた日にここで食事をします。小屋から少し離れたところに清めの手段が埋められ、そこから月桂樹が育ちました。それは実際に残っており、この小屋の前のものです。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.31.8より

また、以下のような伝説もあります。

彼らがオレステ―スを清めるために使用したと彼らが言う手段の中には、ヒッポクレーネ(馬の泉)からの水もあります。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.31.9より

この馬の泉は「(3):テーセウスの誕生(1)」に登場した天馬ペーガソスのひづめによって出来たものでした。


このオレステースの子ティーサメノスが王であった時に、ヘーラクレースの子孫たちが土地の支配権を主張してスパルタやアルゴスなどに攻めてきます。彼らが引き連れて来た人々はドーリス人と呼ばれていました。この時にトロイゼーンもドーリス人に占領され、以後トロイゼーンはドーリス系の町になるのですが、その経緯ははっきりしません。パウサニアースが伝えるのは、トロイゼーンがそれ以前にアルゴス支配下にあったので、アルゴスがドーリス人に占領された時に、トロイゼーンもドーリス人を受け入れた、というだけです。

ヘーラクレイダイ(=ヘーラクレースの子孫)が戻ったとき、トロイゼーン人もアルゴスからドーリス人の入植者を受け入れました。彼らはもっと早い時期にアルゴス人の支配下にありました。ホメーロスも(船の)カタログにおいて、彼らの指揮官はディオメーデースだったと言っています。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.30.10より

伝説によればドーリス人がペロポネーソス半島南部を占領した際、アルゴスの支配権を得たのは、ヘーラクレースの子孫のテーメノスでした。この時、テーメノスが直接トロイゼーンを支配したのか、それとも誰か別の人物が支配したのかはっきりしません。いずれにせよ、古典時代にはトロイゼーンはアルゴスとは別の国として独立していたのですから、どこかの時点でトロイゼーンの王家が存在していたはずです。しかし、この王家についての情報を私は見つけることが出来ませんでした。結局、この時代については調査してもよく分かりませんでした。