神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(6):ヒッポリュトス(2)

テーセウスは妃パイドラーの死をひとしきり嘆いたあと、その遺書を読みます。

テセウス [書板をよみ終え、死骸の傍をはなれてきて] おお、これはまた、なんという悪いことが、つづいて起ることであろう。まことに言語道断なこと、なんとおれは不運な人間であろう。(中略)なんという、なんという恐ろしいことを、おれはこの手紙でよんだことであろう。(中略)おお、わが祖国も聞き給え、ヒッポリュトスめが、きびしいゼウスの御目も憚らず、おれの閨を無礼にも犯そうといたしたのじゃ。


エウリーピデース「ヒッポリュトス」 松平千秋訳 より

テーセウスはパイドラーの遺書を読んで、ヒッポリュトスがパイドラーを襲おうとしたのだと信じ切ってしまいました。さて、このエウリーピデースの悲劇ではテーセウスの父親は海神ポセイドーンということになっています。テーセウスはポセイドーン神に対して、ヒッポリュトスの命を奪って欲しいと祈願します。

テセウス (中略) おお、父上であるポセイドン様、いつか私に、三度まではかなえてやるとお約束くださいましたあの呪い、もし偽りでないのならば、その一つで、倅めを、明日とはいわず、今日この日に、なきものにしてくださいませ。
コロスの長(トロイゼンの女) 殿様、どうかそのご祈願はおとりやめになってくださいませ。きっと後悔なさる時がまいります。どうか私の申すことをお聞きになって。
テセウス ならぬ、それのみかおれは彼をこの国より追放するぞ。すなわち彼は二つのうちいずれかの運命にあわねばならぬのじゃ。ポセイドンがおれに約束したとおり、彼を黄泉に送ってくださるか、あるいはこの国を追われ、見知らぬ国に彷徨(さまよ)うて、みじめな一生を送るか、そのいずれかじゃ。


同上

このあとヒッポリュトスはテーセウスに対面し、テーセウスの悪罵に対して一生懸命弁明しますが、テーセウスは信じません。テーセウスはヒッポリュトスに町からの追放を言い渡します。ヒッポリュトスは馬に牽かせる戦車に乗って宮殿を出て行きました。彼が海岸を進んでいると海から怪物が現われ、それに驚いた馬たちが暴れ、ヒッポリュトスを戦車から振り落としてしまいました。そしてヒッポリュトスは、手綱が身体に絡みついたまま、戦車に引きずられて死んだのでした。ただしエウリーピデースの劇では瀕死のヒッポリュトスが宮殿に運ばれてテーセウスと対面し、そこに女神アルテミスが出現して、テーセウスに真実を告げて誤解を解く、という筋になっています。

アルテミス これはみな、あの意地の悪いキュプリス(=アプロディーテーの別名)の企み
ヒッポリュトス ああ、誰が私を殺されたのか、それで初めてわかりました。
アルテミス お前が崇めぬのに腹を立て、またお前が堅く身を守るのがキュプリスの気に入らなかったのです。
ヒッポリュトス たったひとりで、三人ものわれわれを再び立てぬようにしてしまわれたのですね。
アルテミス そう、父とお前と、そしてまた父の妃も。
ヒッポリュトス 今となっては、父の不運も嘆きたいと思います。
アルテミス お前の父は、キュプリスの企みにかかって騙されたのです。
ヒッポリュトス ああ、このような不幸にあわれて、お気の毒な父上。
テセウス 倅よ、おれはもう駄目じゃ、生きる楽しみもない。


同上

そして死にゆくヒッポリュトスが父親を許してからこと切れる、という幕切れになっています。



(上:トロイゼーンのヒッポリュトス神殿の跡)


さてトロイゼーンにはヒッポリュトスを祭る神殿があります。往時のトロイゼーンの結婚前の女性たちは、ヒッポリュトスの非業の死を悼んで髪を切って神殿に供えていたということです。

テーセウスの息子であるヒッポリュトスには、非常に有名な区域が捧げられており、その中には古い像を持つ神殿があります。ディオメーデースがこれらを作り、さらにヒッポリュトスに最初に犠牲を捧げたと彼らは言います。トロイゼーン人にはヒッポリュトスの司祭がいて、彼は生涯にわたって彼の神聖な務めを行ない、毎年の犠牲祭が定められています。彼らはまた、次の習慣を守ります。結婚前のすべての乙女はヒッポリュトスのために髪の房を切り落とし、それを切った後、彼女はそれを神殿に持って行って捧げます。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.32.1より

またパウサニアースによれば、トロイゼーンの人々はヒッポリュトスが天に昇って星座のぎょしゃ座になったと主張していたということです。



(右:ぎょしゃ座