神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クラゾメナイ(9):ペロポネーソス戦争

アナクサゴラースが亡くなったのはBC 428年頃とされています。BC 431年にはペロポネーソス戦争が始まり、この戦争はBC 404年まで続きます。これは、アテーナイと中心とするデーロス同盟とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟の間の戦争でした。アナクサゴラースと長年交際のあったアテーナイの指導者ペリクレースもアナクサゴラースと同じ頃、BC 429年に亡くなっています。ただし、それは戦死ではなく疫病に罹って亡くなったのでした。ひょっとするとアナクサゴラースの死も疫病によるものかもしれません。この頃、戦争それ自体は、アナクサゴラースがいたランプサコスにはほとんど影響を与えていませんでした。では、クラゾメナイはどうかといいますと、クラゾメナイもこの頃は戦場から離れていました。クラゾメナイはデーロス同盟に参加しており、アテーナイ側に属していました。


しかしBC 413年、アテーナイ軍がシケリア島(今のシシリー島)で惨敗すると、戦線がイオーニアに移動し、スパルタ側がイオーニアのアテーナイ側の都市に対してさかんに離反を働きかけました。そして有力な海軍国キオスが離反した直後にクラゾメナイもアテーナイから離叛しました。

その場(=キオスの評議会)に臨んだ(スパルタの将軍)カルキデウスと(アテーナイの将軍だったが、亡命してこの時はスパルタ側の将軍になっていた)アルキビアデースは論をつくして(キオスへの)渡来の主旨を説明し、やがて多数の(スパルタ側の)後続船隊が到着すべく目下その途についていると言った(中略)。これを聞いてキオス人、つづいてエリュトライ人が、アテーナイから離叛した。さらにその後、かれらは船三艘を率いてクラゾメナイに航行、これを離叛させた。ただちにクラゾメナイの市民らは、対岸の本土に渡ってポリクナに要塞構築をはじめた。これは危急の際には、今かれらが住んでいる小島の町を捨てて、ここに立てこもるためであった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・14 から

「今かれらが住んでいる小島の町」とあることから、この時もクラゾメナイの町は島にあったことが分かります。この島は今はカランティナ島という名前ですが、当時の名前を見つけることが出来ませんでした。

(上:カランティナ島)


現在は、この島は本土と道路でつながっています。しかし、この当時はつながっていませんでした。アテーナイから離反したクラゾメナイですが、すぐにアテーナイ船隊に攻撃されて鎮圧されてしまいます。

アテーナイ勢は、レスボスの事態を再び旧に復しおわると、その地をあとにクラゾメナイに船隊を進めて、対岸本土のポリクナに構築されていた砦を奪い、ここに立て籠もっていた市民らをふたたび島内のポリスに連れ戻したが、離叛の責任者たちはその中にいなかった。これらの者はダプヌースへと難を避けた。こうしてクラゾメナイは旧状に復帰し、アテーナイ側の意に従うこととなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・23 から

勢力の強い国々に翻弄される姿が見えてきます。BC 404年ペロポネーソス戦争はスパルタ側の勝利に終わります。クラゾメナイはスパルタの将軍リューサンドロスの支配下に入ります。


ペロポネーソス戦争の終り頃には本土側にも新たに町が出来ます。町の名前はキュトンといい、島とキュトンの両方を合わせてクラゾメナイの町を形成していました。しかし、この両者は往々にして意見が合わず、争いが起きたということがアリストテレースの「政治学」に出てきます。のちにアレクサンドロス大王の命によって、島と陸地が防波堤によって結び付けられました。現在、島と本土を結んでいる道路は、この時の防波堤の上に作られたのでしょうか? アレクサンドロス大王の頃から現在まで2300年以上の時が流れているのですが・・・・。私はこれについて調べることが出来ませんでした。クラゾメナイの島が本土に結び付けられたことは、AD 2世紀のパウサニアースが書いていました。

彼ら(クラゾメナイ市民)はペルシア人を恐れて島に渡りました。しかし、やがてフィリップの子アレクサンドロスは、本土から島への防波堤によってクラゾメナイを半島にする運命にありました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・3・9 より

クラゾメナイについての、私の話はここで終わります。読んで下さりありがとうございます。