神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(11):両陣営の狭間で(1)

その後もペロポネーソス戦争は続きます。アテーナイはシケリア島(今のシシリー島)の都市シュラクーサイ(今のシラクサ)を攻撃するために大軍を派遣しましたが、メーテュムナもこの攻撃に参加しました。しかしこの大軍が全滅し、アテーナイの戦闘能力は大幅に減少しました。このシケリア遠征の敗北の報は、ギリシア世界に激震をもたらしました。

次の冬がやって来る頃には、全ギリシア諸邦の人々ははやくもシケリアにおけるアテーナイ側の徹底的敗北を耳にして、みな興奮状態に陥った。それまではいずれの陣営にも組していなかった諸国も、もはや参戦国からの招請を待つまでもなく、今こそ戦に加わるべきとき、アテーナイ攻撃に駆けつけるべきとき、と勇み立った。(中略)同じくまたラケダイモーン(=スパルタ)側の同盟諸国も、それまでにも増してさらに一致協力の実をあげ、多年にわたる苦しみを一刻も早く終わらせるべき、と気負い立った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・2 から

スパルタにはさっそくエウボイア島、レスボス島、キオス島からの使者がやってきてアテーナイから離叛するという意向を伝えてきました。レスボス島からの使者はどの都市からの使者なのかをトゥーキュデュデースは述べていません。まずキオスが離反し、ペロポネーソス勢がキオス近海に到着するのを待たずに、周囲の諸都市(ポリス)を離叛させる動きに出ました。

同夏(BC 412年)、これらの事件の後、キオス人の積極的意志は当初以来一向に衰えを見せず、ペロポネーソスからの来援をまつまでもなく、自分らの数をもってすれば諸ポリスを離叛させるに足りると考え、また目下の危険を頒ちあうべくできうる限り多数の国を味方につけたいと望んで、自国の軍兵と軍船十三艘を率いると、レスボスを目指して遠征軍を進めた。(中略)やがてメーテュムネーに到着した船隊は、先ずこれを離叛させ、ここに軍船四艘を留めた。残りの船隊はさらにミュティレーネーに進んでこれを離叛させた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・22 から


ある日突然、メーテュムナの港にキオスの軍船13隻が入ってきたのでした。そしてメーテュムナの貴族派の一部がそれに呼応して民会で主導権を握り、アテーナイへの離叛を議決させたのでした。キオス船隊は自分の中から4隻を割いてメーテュムナに停泊させ、メーテュムナの貴族派を援護させました。そして残りの9隻はミュティレーネーに向いました。この政変に遭遇したメーテュムナの民衆派は何とか主導権を奪回したいと考えておりましたが、その願望はすぐにかなえられました。というのは、アテーナイ側はすぐにこの政変を察知し、船隊25隻がレスボス島に到着したからです。彼らはミュティレーネーとメーテュムナを自分の陣営に引き戻しました。

アテーナイの軍船二十五艘がレオーンとディオメードーンの両名の指揮下にレスボスに向った。(中略)アテーナイ船隊は航路をそのまま直進して、相手の不意を突いてミュティレーネー港内に入るやキオス船隊を打ち破り、ただちに上陸すると戦を交えて相手側の抵抗を挫き、ポリスを掌握したのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・22 から


(上:レスボス島の地図)


メーテュムナに停泊していた4隻のキオス船は逃走を図りましたが1隻がアテーナイ側に拿捕されました。3隻は逃げてエレソスに入港しました。このあとエレソスにはスパルタの海軍司令アステュオコスがやってきます。彼はキオス軍のレスボスでの作戦を援護しようとしてやってきたのでした。そしてメーテュムナから逃げて来たキオス船3隻は、アテーナイ側がミュティレーネーとメーテュムナを奪回したことをアステュオコスに告げました。

アステュオコスはこれを知ると、ミュティレーネーへの航海を中止して、計画を改めエレソス市民を動員して重装兵部隊を組織し、これを自分の船隊に登場していた重装兵らとあわせて、指揮官エテオニーコスの下に配し、陸路アンティッサとメーテュムネーに向けて出発させた。そして自分は、麾下の船隊にキオス船三艘を加えて、沿岸航路をメーテュムネーに向った。メーテュムネーの市民らが、これら海陸両勢の到着を見れば勇躍して、離叛抗争を強硬に続けるであろう、と期するところがあったのである。しかしながら、レスボスの事態がことごとくかれの目的に反する動きを示すにいたって、かれは自分の率いた陸上部隊を船上に収容してキオスへ帰航した。


同上

「メーテュムネーの市民らが、これら海陸両勢の到着を見れば勇躍して、離叛抗争を強硬に続けるであろう、と期するところがあったのである。」ということは、この段階になってもまだメーテュムナにはスパルタ支持層が一定数存在していたということなのでしょう。しかし、メーテュムナの大勢はアテーナイ支持でした。このあとメーテュムナはスパルタ支持派の指導層の人々を国外追放に処しました。