神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クラゾメナイ(8):アナクサゴラース(2)

以下の話は私には本当らしく思えないのですが、こんな話も伝わっているということで、ご紹介します。

ともかくこんな話がある。ペリクレスが仕事に忙殺されていてアナクサゴラスの面倒を見る者がいなかった時、アナクサゴラスはすでに老齢であるし食を断って死んでしまおうと衣ですっぽり顔をおおって横になっていた。寝耳に水のペリクレスは仰天してすぐさまこの人のところに駆けつけ、思い直してくれと一生懸命頼み込んで、こういう立派な相談相手を失いでもすれば、アナクサゴラスではなく、自分の身が嘆かれると言った。するとアナクサゴラスはおおいの間から顔を出して、「ペリクレスよ、ランプを必要とする人はそれに油を注ぐものだよ」と言った。


プルータルコス「ペリクレース伝」16 馬場 恵二 訳 より


悲劇作家のエウリーピデースもアナクサゴラースの弟子だったと言われています。そして、彼が悲劇「パエトーン」の中で太陽のことを「黄金の塊」と呼んだのは、アナクサゴラースの教説に由来するとのことです、アナクサゴラースは太陽を「灼熱した金属の塊」であると考えていました。しかし、この教説が不敬罪のかどでアテーナイ市民から訴えられることになったと言います。もちろん、当時の一般の考え方では太陽は神ヘーリオスにほかならなかったからです。


一方、プルータルコスが伝える話では

(アテーナイ市民)ディオペイテスは、神事を認めず天空事象に関する学説を教授する者は「公けの弾劾」を受くべし、という決議案を提出した。これはアナクサゴラスにかこつけて、人々の疑惑の目をペリクレスに差し向けさせようとするものであった。


プルータルコス「ペリクレース伝」32 馬場 恵二 訳 より

となっていて、こちらの方がより真実に近いように思います。つまり、ペリクレースの政敵がペリクレースを失脚させるために、アナクサゴラースを弾劾しようとした、ということです。これはペリクレースが政権を握っていた15年間の末期のことだということです。この15年間はペリクレースがアテーナイの最盛期を築いたために「ペリクレース時代」と後世呼ばれるようになりました。そんな時代であっても、民主制を採る当時のアテーナイでは、ペリクレースに反対する者たちにも発言権があったのでした。


ペリクレースはこれ以外にも会計報告の件や、自分の内縁の妻のことなどで訴えを受けていて、その対処に追われていました。結局、アナクサゴラースについてはアテーナイから小アジアのランプサコスに立ち去らせることにしたのでした。

アナクサゴラスについては、民衆裁判所を怖れて、人目を盗んで連れ出し手廻し良く国外に立ち去らせた。


同上


ランプサコスでのアナクサゴラースについては、こんな話が伝わっています。

ある人が彼に、ランプサコスの丘はいつか海になることがあるだろうかと訊ねたとき、「時間さえ不足しなければ」と答えたということです。


ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の「アナクサゴラス」の章より

また、こんな話も伝えられています。

「君はアテナイ人から見捨てられている」と言った人に対しては、「いや、わたしではなくて、彼らの方が私から見捨てられているのだ」とやり返した。


同上

アナクサゴラースはランプサコスで生涯を終えたのですが、そのいよいよ臨終という時にランプサコスの役人たちが彼に「何かしてもらいたいことがあるか」と尋ねました。すると彼は「自分が死んだ月に、子供たちが毎年休日をもつようにしてもらいたい」と答えたそうです。そこでランプサコスでは彼を記念する休日を制定しました。その休日はその後600年たったローマ帝国の時代になっても存続していたということです。

ところで、彼が死んだ時、ランプサコスの人々は彼を手厚く葬り、彼の墓の上に次のように記したのであった。

はるか宇宙の果てにまで真理を追い求めたるのち、
アナクサゴラスはここに眠る。


同上