神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

パロス(7):アルキロコス(2)

話をアルキロコスに戻します。彼は戦士であることを誇りに思っていました。しかし、名誉の戦死という概念は彼にはありませんでした。

誰でも死んでしまえば、市民の間で尊敬もされず、
有名にもならぬであろう。吾々生きている者は、
むしろ生者の好意を追い求める。死者には常に最悪の分け前が当る。 (64D)


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

だから戦場では生き延びなければなりませんでした。これは彼がタソスに植民してからの話ですが、原住民のトラーキアのサイオイ族と戦った際、彼は自分の楯を捨てて逃げたのでした。

サイオイの誰かは盾を見つけて、意気軒昂であろう。それを私は
しぶしぶ、藪のところに捨ててきたのだ。非のうちどころのない武具だった。
しかし私自身は救い出せた。どうしてあの盾が気に懸ろう。
盾なんかどうでもよい。もっとよい品を、新たに手に入れよう。


「物語 古代ギリシア人の歴史」周藤芳幸著の「第三章 オリンピックでの優勝をめざして」より

この時彼にとって戦場から「私自身は救い出せた」ことが重要なのであって「盾なんかどうでもよい」のでした。だからと言って彼が腰抜けだったわけではありません。彼が戦場から逃げた行動には一種のプロ意識があるように思います。

心よ、どうしようもない心配事に取り乱された心よ。
立ち上れ、敵に対して胸を突き出して防ぐのだ。
・・・・敵の真近に確固として立ち、
勝利しても、あからさまに誇ってはならぬ。
また敗北しても、家で泣き崩れてはならぬ。
むしろ悦楽を楽しみ、あまりに不幸を悩まぬが良い。
そして知れ、いかなるリズムが人間界を支配しているかを。 (67aD)


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

「勝利しても、あからさまに誇ってはならぬ。また敗北しても、家で泣き崩れてはならぬ」というところに私はプロの戦士としての意識を感じます。冷静なのです。サイオイ族との戦いで楯を捨てて逃げようと判断したのは、おそらくそこでさらに戦っても勝ち目がなかったからなのでしょう。彼は無駄に命を捨てる気はないのです。


ところで上の断片の最後の行に登場する「リズム」というのはアルキロコスにとって重要な概念らしく、それは人生の浮き沈みの周期のことを指しています。彼は人間が遭遇する幸不幸には一種の周期があると考えており、それをリズムと捉えているのだそうです。ですので不幸の時は、やがてその不幸が別のところに移っていくことを信じて、彼はそれを耐え忍ぼうとします。

だが友よ、神々は癒しがたい不幸にも強い忍耐をば
 薬として定めて下さっているのだ。かかる惨事は時の移るとともに、
別の人を襲いゆくもの。今は吾らの襲われる順番なので、
 それで吾らは血まみれの傷口を大声で嘆いているのだ。
だが、すぐにも他の人々の所へ移ってゆくだろう。
 さあ諸君、早く女々しい苦痛を追い払って耐えるのだ。 (7D)


同上

ロス島に住んでいた時にアルキロコスに関わるひとつの事件がありました。彼はパロス人のリュカンベスと、リュカンベスの娘ネオブーレーとの結婚について合意を得ていたのですが、後になって理由は定かではないのですが、リュカンベスは婚約を破棄しました。そこでアルキロコスはリュカンベスを罵倒する詩を作りました。

父なるリュカンベスよ、これはまた何ということを考えたのですか。
誰が貴方の分別を迷わせたのか。
以前には正常であったのに。
しかし今はもはや貴方は
町の人々の大笑いの種になっている。 (88D)


同上

また、こんな詩も見つかっています。

しかし私は一つの大いなることを知っている。
私に悪を為した人に対しては、悪しき罵倒で返礼すること。 (66D)


同上

この事件がどう決着したのか、資料が残っていないため分かりません。一般には、この事件がきっかけとなってアルキロコスはパロス島を離れタソスに移住した、というふうに言われています。タソスに移住してみたものの、アルキロコスはそこでも不満を持っていました。自分の詩の中で「タソスなる三重に悲痛なポリス」と言い「すべてのギリシア人の苦悩はタソスで集まった」と表現しています。それでも彼は上で述べたようにタソスのために兵士として敵と戦ったのでした。彼はトラーキアとの戦争の予感を海の波に譬えて以下のように歌っています。

グラウコスよ、見よ。すでに海は波浪で逆巻き、
ギュライの頂上には雲が立つ。これは嵐の前兆。
予期せざる所から恐怖が迫り来る。


同上

ここで呼びかけられているグラウコスというのは当時のアルキロコスの親しい友人でした。このグラウコスを記念した碑がタソス島で出土しています。


やがてアルキロコスタソス島を去り、スパルタを訪れました。しかし、楯を捨てて逃げたことを自慢して詩に歌うような人間を、スパルタ政府は「青少年の教育上悪い」と判断し、彼を追放してしまいました。結局彼は故郷のパロス島に戻り、そこでナクソス島との戦いに参加し、またパロス市民を鼓舞する愛国的な詩を作りました。そしてその何回目かの戦いの中で戦死した、ということです。アルキロコスを倒したのはコラクスという名前のナクソスの戦士でしたが、彼がその後デルポイへ神託をもらいに出かけたところ、デルポイの巫女は神アポローンの言葉として「汝はムーサ(芸術の女神)のしもべを殺した。神殿から立ち去れ」と告げた、と伝えられています。

  • アルキロコスから話は外れますが、この伝承はプルータルコスなど後世の著作家の興味を惹きました。というのはコラクスは自分の国の防衛のために戦ったのであり、古代ギリシアの常識としてはそれは正当な義務であり、神の叱責を蒙るべき事柄ではなかったからです。