神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

パロス(8):ナクソスとの抗争

晩年のアルキロコスについて述べた碑文が今も残っています。それはBC 1世紀に作成されたと推定される碑文なので、アルキロコスの時代から600年ほどのちのことです。ですのでどこまで信用してよいか分かりませんが、そこにアルコーン(=執政官)という言葉が登場します。このことはBC 650年頃のパロスが王制ではなく、貴族制か民主制であったことを示しています。時代的に民主制は早過ぎると思うので、たぶん貴族制だったと思います。

1900年に発見された石碑(A)の第一欄では、まずタソス植民に関係した事実を述べた上で、次にナクソスとの戦争に話題を転じて、次のように述べ、作品をも引用している。

そして、これらの事件の後に、アンフィティモスが再度アルコーンになり、そして次の作品で(詩人は)またもナクソス人に対する圧倒的な勝利を、次のように語って、明らかにしている。

しかし、雷鳴とどろかすゼウスの娘
アテナイエは、戦闘の中で恵み深く傍らに立ち、
哀れな軍勢の意気を駆り立て給うた。

この詩では、アレスやエニュアリオスではなく、守護神アテナが加護したことになっており、愛国的な色彩が濃厚である。


アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

上の碑文では「ナクソス人に対する圧倒的な勝利」という言葉が目を惹きます。パロスはナクソスに対して圧倒的な勝利を得ることもあったようです。


その後ようやくギリシアでは良質の大理石を神殿に用いることが流行してきて、パロス産の大理石の需要が高まりました。このことがパロスの隆盛につながりました。

次のヘーロドトスの記事はアルキロコスの死から80年ぐらいのちの頃と私は推定しますが、その記事はその頃のパロスの政権の安定と経済の繁栄を表しているのではないかと思います。その記事によればパロスはミーレートスの内紛を調停したことがあったということです。

ミレトスもそれ以前は、内争のために二世代にわたって疲弊の極に達したことがあり、その後パロス人がようやくこれを立て直したのであった。つまりミレトス人が、ギリシアの中から、特にパロス人を内紛の調停者にえらんだのである。
 パロス人は次のようにしてミレトスの内紛をおさめた。
 パロスの有力者たちがミレトスへきてみると、ミレトスが経済的に破綻していることがわかった。そこでミレトスの国土を一通り検分したいと申し出て、ミレトス全土を見て廻り、荒廃した国土に時たまよく耕された畑が目につくと、そのたびにその畑の所有者の名を控えていった。
 全土を廻っても、こういう畑は数えるほどしかなかったが、町へ帰ると早速民会を召集して、手入れのよかった畑の所有者たちに、国政を任せることにした。こういう人間ならば、公共のことも自分のことと同様に、よく面倒を見るに違いないから、というのがパロス人たちの挙げた理由であった。そしてそれ以外の、これまで内紛をつづけてきたミレトス人たちは、この新しい為政者の命に服すべきことを、申し渡したのである。


ヘロドトス「歴史」巻5 28・29 より


ミーレートスの人々が「全ギリシアの中から、特にパロス人を内紛の調停者にえらんだ」のは、きっとパロスの内政がその頃よく、かつ経済的にも繁栄していたからでしょう。


しかしBC 546年、東隣のナクソスリュグダミスという貴族が民衆の支持を得て政権を握ると、彼は商工業を保護する政策を採って国力を伸ばし、軍事力を増強してパロス島を始め周辺の島々を支配下に置いてしまいました。ここにアルキロコスの頃からあったナクソスとの抗争は、ナクソス側の勝利に終わったのでした。このあとBC 499年にペルシアがナクソスに侵攻した際も、パロスはナクソス支配下にありました。


では、パロス側でナクソスに反抗しようとする者はいなかったのでしょうか? そういう人物は多くいたと私は思います。しかし資料には出てこないようです。私はシロウトなりの考えでテイシアスの子リュサゴラスというのが、そのような人物ではなかったか、と想像しています。その想像については、次回、お話しさせて下さい。