神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(14):イオーニアの反乱

イオーニアの反乱は5年続きました。途中で反乱の首謀者だったミーレートスの僭主アリスタゴラスが逃亡する、という事件もありました。アリスタゴラスの従兄弟で舅でもあったミーレートス人ヒスティアイオスは反乱発生時にはペルシアの首都スーサにいたのですが、そこから口八丁手八丁でダーレイオス王をだまして脱出し、エーゲ海の島キオス島にたどり着きました。そこからミーレートスに帰国しようとしたのですが、アリスタゴラスが逃亡して民主制を回復したミーレートスは帰国を拒否しました。このヒスティアイオスが今度はミュティレーネーをかき回すことになります。

キオス人は(中略)ヒスティアイオスを、彼自身の希望に従ってミレトスへ帰国させようとした。しかしミレトス人アリスタゴラスの専制からようやく解放されてホッとしている時で、いったん自由の味を知ったからには、再び別の独裁者を国に迎えようとする気持は毛頭なかった。それでヒスティアイオスが夜陰に乗じて、ミレトスへ復帰を強行しようとしたとき、彼はミレトス人のある者の手にかかって腿に傷を負ったのである。祖国からしめ出されたヒスティアイオスキオスへ引き返したが、キオス人から船を提供させる説得に失敗するや、ここからレスボス島のミュティレネに渡り、レスボス人を説いて、自分に船を提供させることに成功した。彼らは八隻の三段橈船を艤装してヒスティアイオスとともにビュザンティオンに航行し、ここに根拠を定めて、黒海から出てくる船を片端から捕獲したのである。ただしそれらの内ヒスティアイオス服従する意志を明らかにしたものだけは捕獲を免れた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、5 から


このヒスティアイオスのビューザンティオンでの作戦はペルシアに対する作戦だったと思うのですが、今ひとつ目的が分かりません。黒海から出てくる船にはギリシア側の船もあり、彼はそれをも捕獲していたからです。彼にはペルシアもギリシアもなく、単に自分の勢力が強まればよかったのかもしれません。ところでビューザンティオンというのは今のイスタンブールです。ここでミュティレーネー人がヒスティアイオスに協力しているのが面白いです。ミュティレーネーは黒海への入口の確保となると昔からの行きがかりで熱くなるのでしょう。この動乱を機に再び、黒海沿岸との貿易ルートを独占したかったのかもしれません。


そうこうしているうちに、ペルシアの陸軍と艦隊が同時にミーレートス目指して近づいてきました。

ヒスティアイオスとミュティレネ人が右のような行動に出ている間に、肝心のミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。(中略)
ペルシア軍がミレトス(中略)に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から

上の引用で「ラデ」というのはミーレートスの沖にある島のことです。今では長年の堆積により内陸になっています。
さて、このように議決して各イオーニア都市は軍船を派遣しましたが、アイオリスに属するレスボス島からも70隻の軍船が派遣されています。それがレスボス島のどの町からの軍船であるのかヘーロドトスは記していません。あるいはレスボス島の町々が派遣した軍船の合計が70隻だったのかもしれません。
ラデー島に集結した各都市の軍船の数は以下のとおりでした。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Model_of_a_greek_trireme.jpg

  計     353隻

対するペルシア艦隊は

  • ペルシア 600隻

でした。


しかし、いざ決戦になると最右翼にいたサモス艦隊の大部分が裏切ってサモスに帰国してしまいました。それを見たレスボス艦隊も戦線を離脱してしまいました。この結果、この海戦はペルシア側が勝利し、その後ミーレートスは占領され、5年間の反乱も収束に向いました。


ミーレートスの陥落の報を聞いたヒスティアイオスはあろうことか今度はミュティレーネー人を率いてキオスを占領してしまいました。キオスはラデーの海戦では逃亡せず善戦したため大損害を受けて防衛力が弱まっていました。そのためあまり抵抗出来なかったのです。ヒスティアイオスキオスを平定すると次にはタソス島を攻めました。タソスの住民はギリシア人で、またペルシアには服属しておらず、ここを攻める大義名分はまったくありません。タソスには金鉱があるのであるいはそれを手に入れて軍資金にしようとしたのかもしれません。
さて、タソスを攻撃中のヒスティアイオスの許へ、ペルシア配下のフェニキア海軍がミーレートスを出航し、イオーニアの他の諸市の攻撃に発進したという情報が届きました。するとヒスティアイオスはレスボス島を防衛するために、タソス攻略を中止し全軍を率いてレスボス島に戻りました。ところがレスボスに到着した彼の軍隊は糧食が不足していました。レスボス島から徴発するだけでは足りず、対岸の小アジア側にも穀物の徴発のために渡海しました。ところがそこには、当時たまたまペルシア軍の大将ハルバコスが軍を率いて駐屯しておりました。彼の軍隊はヒスティアイオスが上陸したところを襲って破り、ヒスティアイオスを生捕りにし、その後彼を処刑しました。
その後のミュティレーネーはと言いますと、ペルシアに占領されたのでした。

ペルシアの艦隊はミレトス附近で冬を過したが、あくる年になって出航すると、キオス、レスボス、テネドスなど、大陸に近接した諸島を易々と占領した。ペルシア軍はこれらの島を占領するごとに、その住民を「曳き網式」に掃蕩したものであった。曳き網式の掃蕩というのは次のようにして行なうのである。兵士が一人ずつ手をつないで、北の海岸から南岸までを貫き、こうして住民を狩り出しながら全島を掃蕩するのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31 から

「曳き網式」掃蕩の話は、本当にこんなことが出来るのかちょっと疑問ですが(途中に崖があったらどうするのでしょう?)、ともかくペルシアに敵対すると思われる者は徹底的に除去されたのでしょう。