神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(13):コエス

3代目のダーレイオス1世の治世の頃にはペルシア王国はバビロニアとエジプトを含む巨大な帝国に成長していました。ペルシア支配下のイオーニア、アイオリスの町々はペルシアの軍事行動に兵を提供しなければなりませんでした。さてBC513年のこと、ダーレイオスはスキュティア(現在のウクライナ南部)へ攻め込みました。その軍の中にはミュティレーネーの部隊もありました。

バビロンの占領後、ダレイオスは自らスキュタイ人遠征に向った。今やアジアは人口も豊かに、国庫に集まる収入は莫大な額に上ったので、ダレイオスはスキュタイ人に報復を思い立ったのである。それというのも先に侵害したのはスキュタイの方で、彼らはペルシア人の進攻以前にメディアに進入し、抵抗するメディア人を撃破したことがあったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、1 から

スキュタイ人がメディアに進攻したころペルシアはメディアの支配下にあったのであり、そのメディアを征服したのがペルシアなのですから、ペルシアの王ダーレイオスがスキュタイに報復を唱えるのは言いがかりなのですが、それを理由にしたわけです。


スキュタイ人の領土は黒海の沿岸で、ドナウ河の北側に位置しました。王ダーレイオスはイオーニア人とアイオリス人の部隊には船で黒海沿岸を北へ進み、先にドナウ河口に到着し、その近くの渡河に適した地点に船橋をかけて、自分の到着を待つように命じました。当時、ギリシア人はドナウ河のことをイストロス河と呼んでいました。ダーレイオスとその麾下の陸上部隊がイストロス河畔に到着し、全軍が渡河を完了したのをダーレイオスが見届けると、ダーレイオスはこの船橋を破壊するように命じました。
その時、ミュティレーネーの部隊を率いていたエルクサンドロスの子コエスが次のようにダーレイオスに告げました。

イオニア軍が橋を壊し、ダレイオスの命を実行せんとした時、ミュティレネ部隊の指揮に当っていたエルクサンドロスの子コエスが、ダレイオスに次のように述べた。実は彼はあらかじめ、果たしてダレイオスが意見を具申せんとする者のいうところを快く聴くかどうかを確かめておいたのである。
「王よ、あなたがこれから兵をお進めになる土地は、耕作地も人間の常住する町も見られぬような所でありますから、この橋は今のままに置き、建造に当った者どもを橋の警備に残してゆかれるのがよろしゅうございます。もしわれらがスキュタイ人を発見し得て、思いどおり事を運ぶことができた場合には、これによって帰還できますし、またかりに彼らを発見できぬ場合にも、帰還の路だけは確保されているわけであります。私はわれらがスキュタイ人と戦って敗れるなどという危惧は一向にもっておりません。むしろ彼らを発見することができず、諸方を彷徨している間に不慮の災厄に遭わぬかを恐れます。このように申すと、私が後に残ろうとして一身の利益のために申しているとだという者があるかも知れません。しかし王よ、私はただあなたにとって最善の策を思いついたので、それを御披露しているのみでありまして、私自身はあくまで王のお供をして参り、後に残るつもりはございません。」
 ダレイオスはこの献策を喜び、次のように答えた。
「レスボスの御人よ、わしが無事にわが家に帰ることができた暁には、必ずわしにそなたの姿を見せてくれ。そなたが有益な建言をしてくれた礼に、わしもそなたのためになることをして報いたいのじゃ。」


ヘロドトス著「歴史」巻4、97 から

そこで、ダーレイオスは船橋を建造したイオーニアの支配者たちにこう告げました。

ダレイオスは一本の革紐に60個の結び目を作り、イオニアの独裁者たちと会見していうには、
イオニア人諸君、(中略)この紐を手許において、これからわしのいうとおりにしてもらいたい。そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば、その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。しかし(中略)それまでは橋の保全と警備に全力を尽し、船橋を守ってもらいたい。そうしてくれれば、わしとしては何より有難いのだ。」
ダレイオスはこのようにいうと、急いで先に進軍していった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、98 から

その後、ダーレイオスのスキュティア遠征は紆余曲折ののち失敗に終わり、ペルシアの軍勢は疲労困憊の態で退却することになりました。そのためこの船橋が残っていたことはペルシアの軍勢の危機を救う重大な役割を果しました。そのためダーレイオスはコエスの功績に対して報いたいと考えるようになりました。

ダレイオスは、ヘレスポントスを渡ってサルディスに帰着するとすぐに、以前ミレトスの人ヒスティアイオスが自分に尽してくれたことや、ミュティレネの人コエスに善い建言をしてもらったことなどを思い出した。そこで二人をサルディスへ呼んで、褒美として何を望むかときいた。(中略)コエスの方は、まだ独裁者ではなく一介の私人に過ぎなかったので、ミュティレネの独裁権を得たいと申し出た。
 望みをかなえられた二人は、それぞれ所望した土地に向った・・・


ヘロドトス著「歴史」巻5、11~12 から

こうしてコエスはミュティレーネーの僭主になったのでした。しかし、彼はミュティレーネーの支配権を長く保つことが出来ませんでした。それはミーレートスの僭主であるアリスタゴラスがダーレイオス王に反旗を翻し、その巻き添えを食ったからです。


ミュティレーネーの僭主コエスはミレトスの僭主アリスタルゴスに協力してナクソスへの遠征に参加していました。このナクソス遠征はうまく行かず、アリスタゴラスは、自分の失敗によってダーレイオス王から僭主の地位を取り上げられるのではないか心配になり、それが嵩じてペルシアに対して反乱を決心したのでした(「ミーレートス(19):イオーニアの反乱のきっかけ」参照)。その頃コエスはというと、遠征から帰還して今はミーレートスに近いミュウースの港に自分の船団を停泊させていました。そしてアリスタゴラスの叛意など全く知らずにいたのでした。反乱を決意したアリスタゴラスは、手始めにペルシアに協力するコエスたちを逮捕することにします。

やはり離反することと決まり、一味の一人が船でミュウスへゆき、ナクソス遠征から帰ってその地に停泊中の船団を訪れ、乗り組んでいる指揮官たちをなんとかして捕えてみることになった。
 この目的のために、イアトラゴラスが派遣され、謀略によってミュラサの人でイバノリスの子オリアトス、テルメラの人でテュムネスの子ヒスティアイオス、エルクサンドロスの子コエス――これはダレイオスが恩賞としてミュティレネを与えた人物――、キュメの人でヘラクレイデスの子アリスタゴラスらその他大勢を捕えたが、こうしてアリスタゴラスは、ダレイオスに対抗する万般の策略をめぐらしつつ、いよいよ公然と反旗をひるがえしたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、37 から

アリスタゴラスは次に、ミーレートス人が進んで自分の謀反に加担してくるように、本心は別ながら、名目上は、ミーレートスで僭主制を廃して民主制を敷くことを宣言しました。そして、イオーニア・アイオリスの他の町々についても民主制を確立すべく、さきほど捕えたイオーニア・アイオリスの町々の僭主を、それぞれの町に引き渡しました。これはなかなかうまい手でした。元々アリスタゴラスの利己的な思惑で計画された反乱が、この策動によって、僭主制を利用してイオーニア・アイオリスを支配するペルシアに対する自由を求める民衆派の戦い、という大義名分を得ることになったのです。

 ミュティレネ人は、コエスが引き渡されるとすぐに、町はずれへ曳き出し、石打ちの刑に処してしまったが、キュメでは元の独裁者を放免した。他の町々も大方は、キュメの例にならった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、38 から

ほかの町々では元僭主を許したのに、ミュティレーネーではコエスを殺してしまったのでした。そして、ミュティレーネーはミーレートスアリスタゴラスの策動にまんまと乗せられ、世に言う「イオーニアの反乱」への参加に踏み切ったのでした。