神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(3):クセルクセースの運河

BC 490年のペルシアによるギリシア遠征は、アテーナイに敗北する結果となります。その後ペルシア王ダーレイオスは、再度の遠征を準備しますが、その途中で死亡します。ダーレイオスの息子のクセルクセースが即位し、ギリシア征服事業を引き継ぎます。その時にアトス半島での難破の記憶がペルシアの高官たちの心に蘇ってきました。そこでクセルクセースは、アトス半島を横断する運河の掘削することを計画します。

さてクセルクセスはまず、先の遠征軍がアトス山を廻航して損害を蒙ったので、ことにアトスに関しては約三年前からあらかじめ手配していた。すなわちケルソネソスのエライウスには三段橈船団が碇泊しており、ここを基地としてペルシア軍に属するあらゆる国籍の兵士が、かわるがわる出向いては厳しい鞭の監督下に運河を掘ったのである。そしてこの開鑿(かいさく)にはアトス附近の住民も参加した。この工事の監督に当ったのは、メガバゾスの子ブバレスおよびアルタイオスの子アルタカイエスという二人のペルシア人であった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、22 から


(上:クセルクセース運河のシミュレーション写真)


この運河は「ペルシア軍に属するあらゆる国籍の兵士が」「厳しい鞭の監督下に」掘ったのですが、それとは別に「アトス附近の住民も参加した」のでした。その中でもアカントスの住民の働きぶりは格別だったようです。のちにクセルクセースがギリシア本土への遠征軍を率いてきた時にアカントスに立ち寄り、運河建設に貢献したということでアカントスに恩賞を与えています。

さてクセルクセスはアカントスへ着くと、アカントス人たちが今次の戦争に熱意を示す様を目のあたり見、かつ運河の開墾にも貢献したことを聞いて、今後彼らをペルシアの客分として扱う旨を宣言し、メディア風の衣装を市民たちに贈り、その功績を賞讃した。


ヘロドトス著「歴史」巻7、116 から

上の引用文にある「メディア風の衣装」についてですが、メディアというのはペルシアに最初に征服された民族で、今のイラン・イラクあたりに住んでいました。メディア人の貴族はペルシア王国にあっても一般に支配層に属していました。メディア風の衣装をアカントス市民に贈ったという行為は、アカントス市民をメディア人並みに、つまりペルシア人には劣るが他の諸民族よりは上位の者として遇するという意味を持つのだと私は思います。


ところで、この運河建設の総監督をしていたのは、最初の引用文にあるように「メガバゾスの子ブバレスおよびアルタイオスの子アルタカイエスという二人のペルシア人」でしたが、このうちアルタカイエスのほうが、病死してしまいます。すると、アカントス人にどこぞの神殿から「アルタカイエスを英雄(=ヘーロース)として祭れ」という神託が下ったということで、彼らはこのペルシア人アルタカイエスを祭ったのでした。

クセルクセスがアカントスに逗留中、運河開鑿の総指揮に当っていたアルタカイエスが病死した。この男はアカイメネス家(=ペルシア王家)の血筋を引き、クセルクセスの信頼も厚かったが、背丈が五王ペキュスに四ダクテュロス足らぬというペルシア国切っての大男で、また声の大きいことも他に比肩するものがなかった。そこでクセルクセスは彼の死を痛く悲しみ、世にも盛大な葬儀を営んで埋葬してやった。そしてその墳墓は全軍の将兵の手によって築かれたのである。アカントス人は神託に基き、このアルタカイエスを神人(ヘーロース)として祀り、その名を神名として称(とな)えている。


ヘロドトス著「歴史」巻7、117 から

さて、英雄あるいは神人として訳される「ヘーロース」という言葉ですが、一般にギリシア神話に登場する英雄たちもヘーロースと呼ばれます。ヘーロースというのは神ではなくて人間なのですが、ただの人間ではなく崇拝の対象になる人間を指します。


それにしてもアカントス人はなぜこれほどまでにペルシア人やクセルクセースにおもねったのでしょうか? ヘーロドトスはその理由を記していません。私が推測するに、当時アカントスは僭主の支配下にあり、この僭主がペルシアの後ろ盾で権力を維持していたのではないか、と思います。ペルシアの力で権力を維持していた僭主の例は多くあります。そのような僭主であれば、自分の支配権を強化するために、運河建設に協力したり、クセルクセース王のお気に入りの臣下をヘーロースとして祭ったりするのは、不思議ではありません。


なお、この運河(「クセルクセースの運河」という名前がついています)はこの時に使用されただけでその後は使われず、メンテナンスする人もいなかったためにやがて埋まってしまったということです。それでも現在でも航空写真で運河の位置を確認することが出来ます。運河はアカントスの町の2kmほど東にありました。

(上:クセルクセース運河の北端(=アカントス側)の今の様子)