神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(11):ペルシア戦争

キオスは再びペルシアの支配下に戻り、その後起ったBC 490年の1回目のペルシア戦争と、その10年後のBC 480年の2回目のペルシア戦争には、キオスは戦艦を派遣し、同じ民族のギリシア勢を敵として戦わなければなりませんでした。BC 480年の2回目のペルシア戦争はペルシア王クセルクセースが自ら軍を率いるもので、1回目の侵攻より大規模な軍勢でしたが、アテーナイ沖のサラミースの海戦ギリシア側に敗北します。クセルクセース王は小アジアのサルディスに逃げ帰りますが、将軍のマルドニオスがギリシア北部のテッサリアに冬営して、翌春の再度のアテーナイおよびペロポネーソス半島の侵攻を期していました。


さてBC 479年の春が到来すると、ギリシア側にも応戦の動きが始まりました。古代のこの地方では冬に戦争は行わないのでした。


この頃キオスでは、バシレイデースの子ヘーロドトスが他の6人の同志とともにキオスの僭主ストラッティスの暗殺を計画しておりました。しかし、その内の一人が裏切り、暗殺計画はストラッティスに知られてしまいました。ストラッティスは彼らを捕まえようとしますが、残りの6人はキオスを出航し、スパルタに向かいました。スパルタで彼らは、ギリシア軍のイオーニアへの進攻を訴えました。スパルタ政府がいうのは、すでにスパルタ王レオーテュキデースがアイギーナに赴き、そこに同盟諸国から軍船が集結している、そこに向われ、レオーティキデース王に直接、その要請を訴えるのがよい、というものでした。

 ギリシア方にあっても、春の到来とマルドニオスがテッサリアにあることによって、その活動はふたたび活発となった。陸上部隊はまだ集結していなかったが、水軍は総勢百十隻の船がすでにアイギナに到着していた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、132 から


そこでキオスの6人はアイギーナ島のレオーテュキデースの許に向い、レオーテュキデースにイオーニアに海軍を進め、イオーニアをペルシアの支配から解放することを訴えました。しかしレオーテュキデースはペルシア海軍を恐れて、ギリシア連合海軍をエーゲ海の真ん中のデーロス島までにしか進めることしか出来ませんでした。この時のギリシア連合海軍にとってキオス島は、ジブラルタル海峡と同じくらい遠いように思われたのでした。一方、ペルシア海軍はサモス島に停泊していましたが、彼らもギリシア海軍を恐れ、そこからあえて西に向おうとはしないのでした。

こうして符節を合せたように、ペルシア軍は恐れをなしてサモスより西方に船を進める勇気はなく、一方ギリシア軍もキオス人たちの懇請にもかかわらず、デロスより東方へは敢えて進もうとしなかった。要するに恐怖感が両軍の中間地帯の安全を確保したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、132 から

しばらくして、今度は同じくペルシア支配下にあるサモス島から3名の使者が、サモスの僭主には秘密にしたままデーロス島にやってきて、同じくペルシアからのイオーニア解放を訴えました。つまり反ペルシア、反僭主の動きはキオスだけでなく他のイオーニア都市にもあったのでした。ところで、この3名のサモス人うち一人の名がヘゲシストラトスだったことが、この時レオーテュキデースに神意を感じさせたのでした。というのは、ヘゲシストラトスというのは「軍を案内する者」という意味の名前だったからです。

 サモスからきたこの男が必死に嘆願したところ、レオテュキデスは――相手の言葉によって先のことを占うつもりであったのか、あるいはたまたま神がそのように仕向けられたのか――
サモスから来られたお人よ、そなたの名はなんといわれる」
と訊ねた。相手がヘゲシストラトスであると答えると、レオテュキデスは彼がさらに言葉を続けようとするのを遮っていうには、
「そなたの名をよい前兆として受け取ることにしよう。サモスのお人よ。そなたもそなたに同行の諸君も、サモス人は熱意をもってわれわれに協力し敵に当ると信義を誓った上、引き上げるようにしてもらいたい。」


ヘロドトス著「歴史」巻9、91 から


神意を感じたレオーテュキデースがギリシア連合海軍をサモス島まで進めると、そこにいたペルシア海軍は戦おうともせず大陸側のミュカレーまで退却しました。ここミュカレーにはペルシア支配下のイオーニア都市から派遣された部隊が守備に就いていました。彼らはペルシア軍の一翼を形成していたのですが、いよいよ戦いが始まるとペルシアに対して反乱を起こし、ギリシア側に味方しました。

 戦いに出たサモス兵たちは、ペルシア人内で武器をとり上げられていたが、戦闘が始まる早々から、形勢が容易に定まらぬのを見て、ギリシア軍を援助するために、力の及ぶ限りの努力を尽した。他のイオニア人部隊もサモス人の率先した行動を目にして、彼らもまたペルシア軍に叛いて異国軍を攻撃したのであった。
(中略)こうしてイオニアはまたしてもペルシアに反乱を起こしたのである。



ヘロドトス著「歴史」巻9, 103~104から

この時、キオス人部隊もギリシア方に寝返りました。その結果、キオスは他のイオーニア諸都市と一緒にペルシアの支配を脱したのでした。ヘーロドトスは僭主ストラッティスの運命について書いていませんが、おそらく国外追放に処したのだと想像します。


ミュカレーの戦いに勝利を得たギリシア海軍がサモスに戻った時、彼らによってイオーニアの今後について協議が行われました。スパルタを始めとする多数の意見は、イオーニアの地をペルシア支配下のままとし、イオーニアの住民をギリシア支配下のどこかへ移住させようというものでした。しかし、イオーニア諸市の母市を自認するアテーナイがこの案に強硬に反対し、イオーニアをギリシア側が継続して確保することを主張しました。このため、他の諸国も譲歩し、イオーニアの諸都市をギリシアの軍事同盟に加えることになりました。彼らは共同してペルシアの脅威に立ち向かうことになるのです。この時、キオスも同盟に加わりました。これがのちにアテーナイを中心とするデーロス同盟に発展していくのでした。