神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(1):起源


コロポーン小アジアのイオーニア地方にあった町です。コロポーンというのは頂上という意味だそうです。この町のそばには神託の神アポローンの聖所クラロスがありました。BC 7世紀のコロポーン出身の詩人ミムネルモスによればコロポーンの人々はペロポネーソス半島の南西にある町ピュロスからやってきたということです。

ネーレイダイのピュロスの気高い町から我らが船に乗ってアジアの心地よい土地に来た時、我らは圧倒的な力で美しいコロポーンに居座る痛ましい誇りを破壊し・・・・


タフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項より

「ネーレイダイのピュロス」の「ネーレイダイ」というのは、ギリシア神話に登場するピュロス王ネーレウスの子孫という意味です。ネーレウスには多くの息子がいましたが、一人を除いて全員ヘーラクレースとの戦いで殺されてしまいました。その場にいなかった幼いネストールだけが生き残り、次の代のピュロス王になりました。ですので、ネーレイダイと言えば、このネストールの子孫になります。ネストールは、ホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイアー」では長老の姿で登場し、自分の過去の功業を半ば自慢しながら他のギリシア君侯に助言を与える人物として描かれています。


ネーレウスの子孫たちは、北方から攻めてきたヘーラクレースの子孫たちによって故国を追い出された、ということになっています。その一部はアテーナイに行き、テーセウスの子孫に代わってアテーナイの王になりました。メラントス、コドロスというのがそれらの者たちです。またアテーナイに亡命して、アテーナイの貴族の家柄になった者もおり、それはアルクマイオーン家と呼ばれました。ミムネルモスの上の詩によれば、コロポーンを建設したのはネーレイダイの一部だということです。「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」によれば、アテナイオスの「食卓の賢人たち」には、「我々がミムネルモスのナンノ(=ミムネルモスの詩集の名前)から学んだように、コロポーンはピュロスアンドライモンによって創建された」と書かれているということです。これを考慮すると、ピュロスアンドライモンがネーレウスの子孫であり、彼がピュロス人を率いてコロポーンを建設した、ということになります。このアンドライモンについてもっと情報があったら、と思います。


一方、ずっと時代を下ってAD 2世紀の旅行家パウサニアースの「ギリシア案内記」によればコロポーンの起源はもっとさかのぼり、トロイア戦争より前のこととなっています。最初にコロポーンの付近にやってきたのはクレータ島出身のラキオスという人物で、彼は多数のクレータ人を率いていたということです。そのころ、この土地にはカーリア人が住んでいました。ラキオスの一行は、岸辺の土地(おそらくのちのノティオンという町のあった場所)を確保することが出来ただけでした。そこへ女性で予言者のマントーがテーバイ人を率いてクラロスの地までやってきました。ラキオスの部下たちは武装して彼らに立ち向かい、マントーをラキオスの元に連行しました。ラキオスはマントーに、おまえはどこの国の人で名前は何か、と尋ねました。マントーは以下のように答えました。


「自分はテーバイ人であり、テーバイに名高い予言者テイレシアースの娘マントーである。テーバイはアルゴス軍によって攻められ、父と私はテーバイから逃げ延びたが、父は途中で死に、自分はアルゴス兵に捕まって捕虜となった。アルゴス軍はテーバイを攻める前に、神アポローンに対して、もしテーバイを見事陥落させることが出来ましたならば、戦利品の中で最も良いものをテルポイのアポローン神殿に奉納します、と祈願していた。そしてテーバイを陥落させたので、アルゴス軍の将帥たちは捕虜の中で自分(マントー)を最良のものと考えて、他の戦利品とともにデルポイに送った。それから長い間デルポイの神殿の下婢として過ごしていたところ、神託が下りて、アポローン神より小アジアに神殿を建設することを命じられた。そのため、船で海を渡ってここまでやってきたのだ。」


ラキオスはその話を聞いて、マントーとその一行を受け入れ、マントーを妻に迎えることにしました。また、クラロスの地に神殿を建てることを許しました。やがて、2人の間には息子のモプソスが生れ、このモプソスがのちに内陸のカーリア人を追い出してコロポーンの町を建設したということです。


この話によれば、コロポーンの最初の住民はクレータ島とテーバイからやってきたことになります。