神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(7):プロクレース

BC 7世紀頃からギリシアの各地で僭主が現われました。僭主というのは、非合法に政権を握った君主のことで、普通、商人階級の支持を受けて、昔からの土地貴族の力に対抗しました。


ヘーロドトスによればエピダウロスにもかつて僭主が少なくとも一人はいたということです。その僭主の名前はプロクレースと言います。彼が僭主になった頃、エピダウロスの近くのコリントスではすでにキュプセロスが貴族制を打倒して僭主になっていました。プロクレースはキュプセロスと同盟を結ぶために自分の娘メリッサをキュプセロスの長男ペリアンドロスの妻として送り出しました。娘のメリッサはペリアンドロスとの間に2人の男子を儲けました。その後、ペリアンドロスはキュプセロスのあとを継いでコリントスの僭主になりました。こうなることをプロクレースは予想していたのだと思います。ペリアンドロスは才覚のある男で、七賢人の一人にも選ばれています。

  • 一方で彼には粗暴な振る舞いも伝えられており、ある人々は七賢人の一人であるペリアンドロスと、コリントスの僭主ペリアンドロスは別人である、という説を唱えました。

ここまではプロクレースの期待通りに事が進んだのですが、ペリアンドロスがメリッサを殺してしまうという予想外の事件が起きます。

ペリアンドロスはキュプセロスの子でコリントス人であり、(中略)彼はリュシデを妻としたが、彼自身はその妻をメリッサと呼んでいた。彼女の父はエピダウロスの僭主プロクレスであり、(中略)この妻からペリアンドロスは二人の息子、キュプセロスとリュコプロンを得た。下の子(リュコプロン)は利発であったが、上の子(キュプセロス)は愚鈍だった。やがて時が経って、彼は側妻たちの中傷を信じて怒りにかられ、妊娠中の妻に踏み台を投げかけて、あるいは足で蹴って、これを殺してしまった。ただし、この側妻たちを彼は焼き殺してしまったのであるが。


ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の第1巻 第7章「ペリアンドロス」より

メリッサの死の原因をペリアンドロスは息子たちや、舅のプロクレスには隠していたようです。それで、プロクレスがメリッサの子供たちをエピダウロスに呼び寄せた時にペリアンドロスは子供たちがプロクレスの許に行くことを許したのでした。ところがプロクレースは、どこからか娘の死の真相を聞いて知っていたのでした。

 ペリアンドロスにはメリッサの生んだ二人の男児があり、一人は十七歳、もう一人は十八歳であった。ある時この二児を彼らには母方の祖父に当る、当時エピダウロスの独裁者であったプロクレスが自分の許へ呼びよせ、娘の生んだ子供であれば当然のことならが、厚くもてなした。二人を国へ帰す時になって、プロクレスは彼らを見送りに出て、その折いうには、
「お前たちの母親を殺したのは誰か、お前たちは知っているのかね。」
祖父のこの言葉を、兄の方は一向気にかけなかったが、リュコプロンという名の年下の子供はこれを聞いて傷心のあまりコリントスへ帰ってからは、母親殺しの下手人であるというので父親に物を言わず、父親が話しかけても受け答えもせず、また訳を訊ねられてもそれに答えようともしなかった。そこでとうとうペリアンドロスは癇癪(かんしゃく)を起し、彼を家から追い出してしまったのである。


ヘロドトス著 歴史 巻3、50 から



その後ペリアンドロスはリュコプロンを脅したりすかしたりして、何とか会話が出来るようにしようとしたのですが、リュコプロンは頑なに父親に対しての態度を変えませんでした。

ペリアンドロスは息子の不幸が、手のほどこしようもなく打開しがたいことを悟り、息子を自分の目の届かぬところに置くために、船を仕立てて彼をケルキュラへ送った。当時この島もペリアンドロスの支配下にあったのである。
 息子を送り出してからペリアンドロスは、このような事態になったことについては舅のプロクレスに一番罪があるというので彼に兵を向け、エピダウロスを占領し、プロクレス自身をも生捕りにした。


ヘロドトス著 歴史 巻3、52 から


ケルキューラは今のコルフ島で、ギリシア本土の西側の海にあります。さて、エピダウロスコリントスに占領され、プロクレースはコリントスに連行されました。おそらく殺されることはなかったでしょうが、元の地位に戻ることもなかったことでしょう。


その後、リュコプロンはどうなったかといいますと

年月は流れてペリアンドロスも老い、自分にもはや政務を執る力のないことを悟ると、ケルキュラに使いをやり、リュコプロンを呼び寄せて僭主の地位につけようとした、(中略)リュコプロンは答えて、父がこの世にあると知る限り、決してコリントスへは帰らぬといった。(中略)ペリアンドロスは三たび使者を送り、自分がケルキュラに行ってもよいこと、その代りリュコプロンはコリントスに帰り王位を継いでくれるように伝えさせた。息子がこの条件で父の申し出を受け入れたので、ペリアンドロスはケルキュラへ、息子はコリントスへ旅立つ準備をととのえていた。ところがケルキュラ人は事の一部始終を知り、ペリアンドロスが自国に来るのを妨げるために、この青年を殺害したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻3、53 から

ペリアンドロスは息子に僭主の地位を渡すことは出来なかったのでした。