神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(3):トロイア戦争

ホメーロスイーリアスでは、トロイア戦争に参加するアスクレーピオスの息子たちが以下のように登場します。

さてその次はトリュッケーや 嶮しい丘のイトーメーを領する者ら、
またオイカリア人エウリュトスの城 オイカリアを領する者ども、
その人々を率いるのは アスクレーピオスが二人の息子ら、
すぐれた腕の医師(くすし)である ポダレイリオスと さらにマカーオーン、
この両人に随(つ)き、三十艘の 中のうつろな船々が 陣にならんだ。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

上の引用で「トリュッケー」とあるのは叙事詩特有の方言によるもので、通常は「トリッカ」と呼ばれ、土地の名前です。この土地はギリシア本土の北部のテッサリアにあります。この詩句から察するに、アスクレーピオスの本拠地はエピダウロスではなくテッサリアのトリッカであるのが本当そうに見えます。では、トロイア戦争の頃のエピダウロスについてどう歌われているのかといいますと、すでに「(1):起源」で引用した次の詩句にたどり着きます。

 またアルゴスや、城壁に名を得たティーリンスを保つ者ども、
さてはヘルミオネー、またアシネーの深い入江を抱く邑々、
トロイゼーンからエーイオナイ、また葡萄のしげるエピダウロス
またアイギナやマセースを受領する アカイアの若殿ばら、
この者どもを率いるのは 雄叫(おたけ)びも勇ましいディオメーデー
およびステネロス、これは名もいと高いカパネウスのいとしい息子
それに三人目として続くのは神にもならぶ丈夫(ますらお)、エウリュアロスで、
ラオスの裔なるメーキステウスの殿の息子と世に聞こえた。


同上

ここにはアスクレーピオスの息子や親族は登場しません。イーリアスに依拠する限り、アスクレーピオスとエピダウロスの関りはあまりなさそうです。


では、「(1):起源」で述べたイオーンの子孫がエピダウロスの王であったという話についてはどうでしょうか? イーリアスに基づく限り、その伝説を裏付ける詩句はありません。上の詩句によれば、エピダウロスアルゴスの領主たちであるディオメーデース、ステネロス、エウリュアロスの3名の支配下にあるように読めます。とはいえエピダウロスの王位にイオーンの子孫が就いていた可能性がまったくないわけでもありません、上の詩句には「アカイアの若殿ばら」という語がありますが、この「アカイアの若殿ばら」の一人としてイオーンの子孫がエピダウロスを支配していた、そしてこの若殿はディオメーデース、ステネロス、エウリュアロスに率いられていた、と考えることは可能です。ただ残念なことに、イーリアスにはエピダウロス出身の武将の名前は登場しません。


以上いろいろ調べてみましたが、トロイア戦争の頃のエピダウロスについてはほとんど分からずじまいでした。


トロイア戦争ののちのエピダウロスについても伝説が見当たりません。そのため、ギリシア本土全般について述べた次の記述から、当時の様子を推測するしかありません。これは歴史家トゥーキュディデースによる文章です。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てるものがつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんどすべてのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアと言われた地方に住みついた(中略)。また80年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔たちとともに、ペロポネーソス半島を占領した。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

トロイア戦争後のギリシアは動乱の時代でした。トロイア陥落から80年後、ドーリス人がペロポネーソス半島に侵入したのでした。そしてエピダウロスもドーリス人に占領されてしまいます。