神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(2):アスクレーピオス

エピダウロスは医療の神アスクレーピオスの信仰の中心地でした。広く伝わっている伝説によればアスクレーピオスは北方のテッサリアの出身ということになっていますが、エピダウロスの伝説ではアスクレーピオスはエピダウロスで生まれたことになっています。


通常の伝説ではアスクレーピオスの誕生は以下のように語られます。ある日、アポローン神はテッサリアに美しい娘がいるのを見つけました。娘の名前はコローニスといい、土地の領主プレギュアースの娘でした。アポローン神はコローニスを恋人にしましたが、神々のなかでも主要な位置にあるアポローンは神としての仕事が忙しく、なかなかコローニスのところへ出向くことが出来ませんでした。そこでアポローンは、自分がいない時の気晴らしにと考えて、1羽のカラスをコローニスに贈りました。


ところがこのカラスがアポローンに変な忠義立てをして、コローニスを監視するようになったのでした。ある日、コローニスの許に若い男が訪れました。この男はコローニスの親戚だったのですが、コローニスとその男の親しげな様子を見てカラスは、てっきりコローニスが浮気していると勘ぐったのです。そしてそのことを自分の親分であるアポローンに告げ知らせたのでした。それを聞いたアポローンは激怒しました(神なんだから、事の真偽はすぐ分かるのでは? という疑問はありますが、そう理詰めで考えると、話が進みません)。激怒したアポローンは「死の矢」を放ってコローニスを射殺してしまいました。


ところが、今にも息が絶えそうなコローニスが言うには、自分のおなかにはあなたとの間の子供がいる、自分が死ぬことはあきらめるが、この子だけは助けてほしい、と言うのでした。早まったことをしたと気付いたアポローンは、コローニスを助けたかったのですが、死んだ人間を生き返らせることはアポローンにも禁じられていました。アポローンは死んだコローニスの胎内から子供を取り出して、その子をケンタウロス族の中の賢者であるケイローンに預けました。ケンタウロス族というのは、上半身が人間、下半身が馬の姿をした種族です。この子供はアスクレーピオスと名づけられました。


以上が通常語られるアスクレーピオスの誕生ですが、エピダウロスで語られるのは違っています。まず、コローニスの父プレギュアースは娘のコローニスを連れてエピダウロスにやってきます。それは密かにエピダウロスの国力を探るためでした。彼は、住民の数はどのくらいか、人びとは勇敢か臆病か、など調べたのでした。コローニスはこの時すでにアポローンの子を妊娠していたのですが、父親には黙っていました。そしてエピダウロスに滞在している時にコローニスはアスクレーピオスをニップルと呼ばれる山でひそかに出産したのでした。コローニスは父親に知られたくないので赤ん坊をそこに捨てました。すると1匹の牝山羊がやって来てこの赤ん坊に乳をあげたのでした。この山羊はこの辺りで放牧されている山羊の群の1頭でした。この群れには番犬もいたのですが、この番犬は山羊の群を放っておいてこの赤ん坊の周りを回って守るような行動を始めました。やがてこの山羊を放牧している牧夫が、番犬がいないのに気付き、探したところ番犬と牝山羊に守られているこの赤ん坊を見つけました。牧夫が赤ん坊を取り上げると赤ん坊の頭から後光が差しました。それで牧夫はこの赤子が何か神聖な存在であるに違いないと思ったのでした。


ここまでがエピダウロス独自の伝説です。このあとは一般に語られていた伝説と同じ物語になります。アポローン神はアスクレーピオスをケンタウロスの賢者ケイローンに預けました。ケイローンは彼に医術を教えました。アポローン神自身もあるいは医術を教えたかもしれません。彼は成長すると名医となり、その医療の技術はどんどん進歩していきました。それは、神のお使いとされる神聖な蛇を使った治療法でした。とうとう最後には死者を生き返らせるところまで行き、何名かの人物を死から蘇らせました。その後、隣国トロイゼーンヒッポリュトスが死んだとき、ヒッポリュトスを庇護していた女神アルテミスがアスクレーピオスにヒッポリュトスを蘇らせることを懇願しました。ヒッポリュトスは蘇りましたが、大神ゼウスはこれを世界の秩序を乱す行為であると考え、アスクレーピオスに稲妻を投げつけて殺したのでした。しかし、アポローン神がそのことに抗議したので、ゼウスはアスクレーピオスを天に上げ、神としました。アスクレーピオスは天に昇ってへびつかい座という星座になりました。



(右:へびつかい座


トロイゼーンの人々がいうのは、ヒッポリュトスも同じく星座になったといいます。それは、ぎょしゃ座でした。



(左:ぎょしゃ座

こうして神となったアスクレーピオスは病を治す神として崇拝されるようになり、特にエピダウロスにはアスクレーピオスの神殿の周りに病人を収容する施設などを伴った信仰的医療センターであるアスクレーピエイオンが建設されました。ところでアスクレーピオスの生きていた時代をあえて求めるならば、いつの時代になるでしょうか? 神話伝説のたぐいですから時代を詮索することは無意味なのですが、あえて求めるとすれば、ホメーロスイーリアスによればアスクレーピオスの息子たちがトロイア戦争に参加しているので、トロイア戦争の一世代前ということになります。