神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(8):ディオニューシオス(2)

このようにイオーニア軍内で内輪もめが起ったのですが、この暗雲はさらに広がることになりました。イオーニア諸都市のひとつであるサモスの司令官はこの戦いは負けると踏んで、戦いが始まったならば戦場を放棄する決心をしたのです。サモスは60隻の戦闘船を出していました。


さて戦端が開かれると、サモス艦隊はすぐに戦場から離脱してサモス島に向いました。ただし、離脱命令を拒否した11隻は戦場に踏み留まりました。サモスが離脱するのを見たレスボス島の艦船も戦場を離脱しました。彼らの戦艦は70隻ありました。そのほかにも戦線を離脱した艦船がありました。キオスからの船100隻は離脱する同盟軍を目撃しながら、それに同調することなく戦場に踏み留まり奮戦しました。ポーカイアの船は前に述べたように3隻しかありませんでしたが、司令官ディオニューシオスに鍛えられただけあって、巧みに戦いを進めました。


しかし形勢はペルシア側に有利で、それを覆すことは出来ませんでした。とうとうイオーニア軍で戦闘可能な船はわずかになってしまいました。これを知ったディオニューシオスは、戦線を離脱し、一路フェニキア(今のレバノン)に向い、そこを襲撃したのでした。

一方ポカイア人ディオニュシオスは、イオニア軍の壊滅を知るや、敵船三隻を捕獲し、ポカイアもやがて他のイオニア諸国とともに奴隷化されることを十分承知していたので、もはやポカイアへは戻らず、そのまますぐにフェニキアに航行し、ここでフェニキアの商船数隻を撃沈して多額の金品を入手するとシケリアへ向った。そしてここを根拠地として海賊となったのであるが、その襲撃はもっぱらカルタゴ人、エトルリア人に向けられ、決してギリシア人を襲うことはなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、17 から

シケリアというのは、今のイタリアのシシリー島のことです。この時代、シシリー島には多くのギリシア人植民市とフェニキア人植民市がありました。ここでディオニューシオスとその部下たちは海賊になったということです。海賊といっても、襲撃の対象のカルタゴ人がフェニキア人の一派であることを考えると、ディオニューシオスにとってこれはペルシアとの戦いの継続であったのかもしれません。


ヘーロドトスが伝えるディオニューシオスの話は以上です。私はその後のディオニューシオスが気になっています。そして私は、ディオニューシオスがまもなく死んだのではないかと思っています。というのは以下の理由からです。イオーニアの反乱が鎮圧されてから3年のち、ペルシア王ダーレイオスはギリシア本土を侵攻します。ペルシア王から命を受けた2人の将軍ダティスとアルタプレネスは、エーゲ海の東から島々をつたってアテーナイまで軍を進めました。私は、もしディオニューシオスが存命ならばこの時、ペルシア軍に対して何か行動を起こしたに違いないと思いました。しかしそのような記録はないので、ディオニューシオスはこの時までに死んだのではないか、と推測しました。では、どうして死んだのでしょうか? カルタゴ人やエトルリア人との戦いで戦死したのでしょうか? いきなり商船を襲撃されたことを恨みに思っているレバノンフェニキア人たちが、同族であるカルタゴ人のところへ行って、共同でディオニューシオスを襲うことを持ちかけたのかもしれません。


さて、ポーカイアは昔からカルタゴと戦ってきました。「(3):マッサリア建設」で書き落していたのですが、BC 600年頃ポーカイアがマッサリア(=マルセイユ)を建設した時にもカルタゴ人(カルケドーン人)と戦ったということが、トゥーキュディデースの「戦史」に出ています。

また、ポーカイア人は、マッサリアに植民地を築いたとき、カルケドーン人を海戦で打破った。


トゥーキュディデース「戦史」巻1 13より

また、「(6):コルシカ島への移住」でご紹介したようにアラリアでもカルタゴ人と戦い、辛うじて勝ったものの激しい損害を受けたのでした。そのためポーカイア人はカルタゴ人に対する敵意を父祖代々受け継いてきたのかもしれません。そしてそれがディニューシオスにも受け継がれていたのかもしれません。


その後のポーカイアについては、あまり目立った話はありません。ただし、ポーカイアはローマ帝国の時代にも存続しており、現代でも(名前はフォッチャと変わっていますが)町は存続しています。

(上:ポーカイアの円形劇場の遺跡)