神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(6):コルシカ島への移住

ポーカイア人たちが国を捨てた行動は、後世の人々にも大きな印象を与えたようです。この事件の500年後、ローマの詩人ホラティウスは、自作の詩の中で、ポーカイアの人々が町を捨てたように、首都ローマを捨てるように人々に呼びかけています。なぜそんな呼びかけをしたかというと、ホラティウスは内乱が続く当時のローマの政情に絶望したからなのでした。


ちょうどフォカイアの町全体が、呪詛を伴った誓いを立てて、田畑や祖国の家々を逃れ、神殿すらも、野猪や獰猛な狼どもの住処となれとばかりに郷里を後にしたのと同様、何処なりとも足の向くままに、また南風や激しい南西の風が、波を通じて招くだろうままに、行こう。それよりも優れた考えはあるまい。


ホラティウス「エポディ」第6歌 より
訳は「典礼古典学序説―ホラティウス試論― 秋山 学 著」のものを使わせて頂きました。


(右:ホラティウス


このように後世の人々によってポーカイア人は、町を捨てる民の典型とされたようです。とはいえ、実際にはポーカイア人は全員が町を捨てたわけではなくて、多くの脱落者を出したことをヘーロドトスは伝えています。

しかしいよいよキュルノスに向うことになると、市民の半数以上のものは、祖国や住みなれた場所を慕わしくまたいたわしく思う心に耐えかねて、誓いを破りポカイアへ船を返していった。そして誓いを守ったものだけが、オイヌッサイから出帆し船を進めたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、165 から

故郷を捨てることが出来たのは半数以下だったのでした。さて、その人々はデルポイの神託「キュルノスを建てよ」に希望を託して、キュルノス島(コルシカ島)にあるポーカイアの植民市アラリアに向いました。

(上:アラリア)

一向はキュルノスへ着くと、彼らより先に移住していた者たちと一緒にこの地に五年間住み、聖所も建てた。しかし彼らは近隣に住む者たちに対し手当り次第に掠奪を働いたので、テュルセノイ人(エトルスキ人)とカルケドン人(カルタゴ人)とが協同して、それぞれ六十隻の船をもってポカイア人を攻めたのである。


ヘーロドトス「歴史」1・166 より


テュルセノイ人というのはエトルリア人のことで、当時、イタリア半島の北西部を中心に居住していました。ですので、コルシカ島のすぐ近くにも彼らは住んでいたわけです。一方、カルタゴ人というのは民族的にはフェニキア人であって、その植民市カルタゴに住んでいた人々をいいます。カルタゴは地中海のアフリカ側の沿岸、今のチュニスにありました。カルタゴは、ここで扱っている時代よりずっと後に、地中海の覇権を巡って共和制ローマと死闘を演じることになります。エトルリア人フェニキア人も当時のギリシア人と同じく統一国家を持たず、多くの都市国家を形成していました。

ポカイア人も六十隻の船に兵員をみたし、いわゆるサルディニア海へ出動し迎え撃ったが、海戦を交えた結果ポカイア人の得たものは世にいう「カドメイアの勝利」で、船四十隻を失い、残存のニ十隻も船首の衝角がへし曲げられて用をなさなくなった。そこでポカイア人はアラリアへ帰航すると、妻子のほか船に積める限りの家財をまとめ、アラリアを捨ててレギオンへ向ったのである。


同上

カドメイアの勝利というのはギリシア神話に登場する「テーバイ攻め」の物語に由来する言葉で、敗北と変わらないほど被害の大きい勝利のことを言います。アラリアのポーカイア人は、エトルリアカルタゴの連合軍に勝ったものの、壊滅的な打撃を受けたというわけです。彼らはアラリアを捨てて、イタリア半島のつま先にある町レーギオンに移住しました。レーギオンは、エウボイア島の町カルキスが建てた植民市です。そしてポーカイア人たちはその後、レーギオンを拠点としてヒュエレという町を建てて移住しました。


一方、ポーカイアの町に戻って来たポーカイア人たちはペルシアの支配の下でおとなしくしていました。国民の約半数を失ったために、国力は以前に比べて格段に落ちてしまったようです。