神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(4):タルテッソスとの交易

ポカイア人はギリシア人の中では遠洋航海の先駆者であり、アドリア海、テュルセニア、イベリア、タルテッソスなどを発見したのもこのポカイア人である。彼らは航海には丸形の船を用いず、五十橈船を用いた。


ヘロドトス著「歴史」巻1、163 から

  • アドリア海イタリア半島の東側にある海で、イタリアと今でいうところのクロアチアとの間の海です。ギリシア本土の西側の海とつながっていますが、ギリシア本土の西側の海のことをギリシア人はイーオニア海と呼んでおり、その北に位置する「アドリア海」とは区別していたようです。なお、「イーオニア海」と、ポーカイアなどの位置するイオーニア地方とは発音が似ていますが、一方は「イーオニア」であり、もう一方は「イオーニア」で、全く別の意味です。
  • テュルセニアエトルリアのことで、イタリア半島の北西部を中心とした地方を指します。ヘーロドトスの時代にはここにはエトルリア人が住んでいましたが、やがてローマによって征服され、ローマ人に同化していきました。
  • イベリアはスペインのことですが、ここではスペインの地中海沿岸地方、今でいうカタローニア地方を指しているようです。
  • タルテッソスジブラルタル海峡を抜けて大西洋側に出たところのスペインの沿岸にあった王国です。ジブラルタル海峡のことを古代ギリシア人は「ヘーラクレースの柱」と呼んでいました。
  • 上の引用には出ていませんが、タルテッソスに達するより以前に、コルシカ島(当時の呼び方ではキュルノス島)にアラリアという植民市を建設しています。


さて、以下はタルテッソスについての話です。

ところで彼らはタルテッソスへ行ってから、その地の王アルガントニオスのお気に入りになった。この王はタルテッソスに君臨すること八十年、まる百二十歳の高齢に達した人である。
 さてポカイア人はこの人に大層気に入られ、はじめ王は彼らにイオニアを離れ、この国のどこなりと好きな処に住むようにすすめたほどであったが、その後ポカイア人を説き落すことができぬと見ると、メディアの勢力が増大していることを彼らから聞いた王は、町に城壁をめぐらすがよいと彼らに金を与えた。よほど気前よく金を与えた証拠には、壁の周囲の長さは数スタディオンなどというようなものではなく、また全体が巨大な石を精巧に組み合せてできているのである。


同上

上の引用文で「彼らはタルテッソスへ行ってから、その地の王アルガントニオスのお気に入りになった」とあります。「(3):マッサリア建設」ではポーカイア人の一人はすぐに現地の王の婿になったということなので、ポーカイア人というのはよほど魅力のある人々だったのでしょう。なお「メディアの勢力が増大している」とあるなかの「メディア」とはここでは「ペルシア」のことを指しています。ペルシアが建国されたのがBC 550年頃ですので、ポーカイア人がタルテッソスと交易を始めたのはその頃のことのようです。

(上:ポーカイアのコイン)


ヘーロドトスはタルテッソスを(ギリシア人として)発見したのがポーカイア人である、としていますが、「歴史」の別の箇所ではそれと矛盾するようなことを書いています。そこではタルテッソスを発見したのはサモス人だということです。

サモス人はこの島(=リビアの近くにある島)を発ち東風に流されながらもエジプトを目指して航行を続けた。しかし風は弱まらず、彼らは「ヘラクレスの柱」を越え、神の導きによってタルテッソスに着いた。ここは当時はまだ通商地として未開拓であったので、彼らが帰国したときは、積荷によって挙げた収益が、われわれが確実な資料に基いて知る限りにおいて、かつていかなるギリシア人も挙げたことのない莫大な額に上った。


ヘロドトス著「歴史」巻4、152 から

この記事の前後の記事から、この出来事はBC 630年頃と推定出来ます。だとすれば、ギリシア人のうちで最初にタルテッソスと交易したのはサモス人ということになるのですが、それならば先ほどの箇所でなぜポーカイア人がタルテッソスの発見者だとヘーロドトスが書いたのか、その理由が分かりません。


さてポーカイア人たちは、タルテッソス王アルガントニオスから贈られた金(きん)によって、ポーカイアの町の城壁を増強し、ヘルシアの侵攻に備えたのでした。