神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(3):マッサリア建設

ポーカイアが建設されてから200年ぐらいの歴史はよくわかりません。その後のことになりますが、信頼性の低い伝説として、「イーリアス」と「オデュッセイアー」を作ったと言われる伝説的な叙事詩ホメーロスが一時期、ポーカイアに住んでいた、という伝説があります。その伝説によればホメーロスキューメーの市民権を得ようとしたのですが失敗したために、キューメーの近くのポーカイアに移住したということです。ホメーロスがなぜキューメーの市民権を得ようとしたのかといいますと、ホメーロスの母親がキューメーの出身だったからです。ではホメーロスの父親はどこの出身だったかといいますと、この男はホメーロスの母親が妊娠したことを知るとホメーロスが生れる前に逃げて行ってしまったという最低な男だったので、どこの出身であろうと頼りなる父親ではありませんでした。

(上:キューメーとポーカイアの位置)



(右:ホメーロス


その後のポーカイアについてですが、分からないことが多いため、BC 600年頃まで時代を下ります。この頃ポーカイアは今の南フランスに植民市マッサリアを建設しました。今のマルセイユです。

(上:マッサリアマルセイユ)の位置)


このマッサリア建設については、藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」の中で、ユスティヌスなる人物の著作を引用して紹介されているので、それを孫引きします。この記事はちょっとややこしい由来を持ち、元はローマ初代皇帝アウグストゥスの頃の歴史家ポンペイウス・トゥログスが書いたものをユスティヌスが要約したものです。それを藤縄氏が先ほどの著作で翻訳されました。それを私が引用するので、孫引きどころか曾孫引きになってしまいました。

フォカイア人は、国土が狭く不毛であったため、余儀なく、漁師や更には海賊にさえなっていた。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」に引用された「ユスティヌス 43巻・3~4章」より

ポーカイア人(フォカイア人)は貿易業に進出したのですが、その貿易業は時と場合によっては海賊業でもありました。

かくて彼らはオケアノスの涯の海岸にまで進出し、ガリア湾の中のロダヌス(ローヌ)河の河口にまでやって来た。そして、その土地の心地良さに魅せられて、フォカイアへ帰ってから見たことを報告して、多数の人々を勧誘した。(中略)船隊の指揮者はシモスとプロティスであった。この両人はセゴブリギイ族の王ナンヌスのもとへ友好を求めに赴いた。この王の領土の中に彼らは都市を築こうと望んだのである。ところが、その日、王は娘ギュプティスの結婚の準備をしていた。
 それらの種族の間では、処女が宴会中に盃を差出して夫を選ぶのが習慣である。かくて、すべての求婚者たちが、結婚式に招待されていたのであるが、ナンヌス王はギリシアの客人をも宴会に招いた。


同上

さて、何かが起こりそうな流れになってきました。この地元原住民の王ナンヌスはどんな意図があってギリシア人を、自分の娘が伴侶を選ぶという大事な宴会に招待したのでしょうか?

次に娘が導かれて来ると、王は彼女に自分が夫に選んだ者に水を差出すように命じた。すると彼女はすべてのガリア人(今のフランス近辺にいた原住民。ギリシア人は彼らのことを「ケルト人」と呼んでいましたが、ローマの人々は「ガリア人」と呼んでいました)を顧みずに、ギリシア人の方を向き、プロティスに水を差出した。かくて彼は客から婿にされて、義父から土地を受けたのである。


同上

これが王女の意志による選択だったのか、それとも王である父親に言い含められての選択だったのか、気になります。

 かくてマッシリア(マッサリアラテン語名)は、ロダヌス河の河口の近くに、海の一隅のような深い湾の中に建設されたのである。そしてガリア人はこの人々から高度な文化的生活を送ることを学んだのである。(中略)


同上

以上が、マッサリア建設の伝説です。この伝説によれば、ポーカイアのマッサリア建設は平和的に行われたようです。

(上:マルセイユ