話を、BC 545年のペルシアによる最初のポーカイア侵攻に戻します。この時ポーカイアの町を捨てたポーカイア人たちは最初、コルシカ島の植民市アラリアに移住し、その後、カルキスが建てたイタリア半島のつま先にある植民市レーギオンに居候し、さらにその後、そこから出てイタリア半島を北上してヒュエレの町を建てたのでした。ヒュエレはその後名前をエレアと変えました。エレアは現在のイタリアのアシェーアという町で、以下に示す位置にあります。
この町の建設について、コロポーン出身の哲学的詩人クセノパネースが叙事詩を作成した、という伝説があります。彼はやはりBC 545年のペルシアの侵攻のために国を捨てて、ギリシア人の住むさまざまな町を渡り歩いていたのでした。かれはペルシアによるイオーニア諸都市征服の時25歳だったと、自作の詩で述べています。
ヘラス(ギリシア)の土地をかなたこなたと
わが思いをさわがせ来ること すでに六十と七年。
生まれた日から数えれば、あのとき(=ペルシア侵攻の時)までの二十五年がこれに加わる――
私がこれらについて、まちがいなく話すことができるとすれば。
(左:クセノパネース)
さて、エレアが創建されてからまもなく誕生した一人の人物がやがて哲学者として名を知られるようになります。その人物はパルメニデースといい、エレアの名家の出でした。きっと両親はポーカイアからの脱出組の一員だったことでしょう。パルメニデースはさきほどのクセノパネースの弟子だったという説もあります。しかし私はクセノパネースはエレアに長期に渡って滞在はしていなかったと推測しており、パルメニデースはクセノパネースの弟子ではなかったと考えています。
パルメニデースの教説は非常に難解でありますが、おぼろげながら分かることは、現実の観察よりも論理的な思索のほうを重視するものである、ということです。彼の哲学的な詩が残っていますが、その序章はなかなか幻想的です。
この身を運ぶ駿馬らは わが心の想いのとどくきわみのはてまで
私を送った――ダイモンの 名も高き道へと私を導き 行かしめたのち。
この道は なべての町々を過ぎて 物識る人を連れて行く道。
その道を 私は運ばれて行った。馬車ひく賢き駿馬らが
この身を運び、道を示し案内するのは 乙女子たちであった。
車軸は轂(こしき)の中に灼熱して 鏘々(そうそう)のひびきを発した――
二つの端にめぐりてやまぬ両輪に いやがうえにも急(せ)き立てられて、
日の御子なる乙女子たちは 「夜」の館をうしろにのこして
光のかたへ私を送ろうと ひたすら急ぎにいそいで
その御手は頭(こうべ)から面紗(おおいぎぬ)を もどかしげに払いのけた。
ここに登場する「夜の館」というのは、普通の人間の考える認識を表しています。「日の御子なる乙女子たち」はパルメニデースを、通常の認識の世界である「夜の館」から、真実の認識の世界である「光のかた」へ運んでいく、というのが上の詩の情景です。そういう教説的なものを示しながら「乙女子たち」が「その御手は頭(こうべ)から面紗(おおいぎぬ)を もどかしげに払いのけた。」というあでやかな光景を映しているところにこの詩の魅力を感じました。
そこに「夜」と「昼」との道をかぎる門があって、
楣(まぐさ)と石の閾(しきみ)とが 上下からそれをいただいている。
門そのものは空たかく屹立(きつりつ)し 大いなる扉にふさがれてあった。
それらを開閉する鍵を持つのは 報いおそろしき女神ディケ。
乙女子たちはそのディケに言葉やさしく語りかけて、われらがために
釘さしてある閂(かんぬき)を すみやかに門よりはずしたまえと
たくみに口説いた。門はすなわちその両翼をひろげ
釘と鋲とのはめこまれた二つの青銅の柱を相ついで
軸受けのなかに回転させながら ここに扉は大きく開かれた。
そこをたちまち乙女子たちは ひとすじに横切(よぎ)りぬけ
車と馬たちとを駆りたてて ひたぶるに大道を進んだ。
同上
パルメニデースがたどり着いたのは、「夜」と「昼」の境にある大きな門であり、その門は扉を閉ざしていました。そしてそれを守護するのは、正義の女神「ディケー」でした。
(右:パルメニデース)