神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(5):ペルシア軍の包囲


(上:現在のポーカイア(現在名:フォッチャ))


さて、元々ポーカイアをはじめとするエーゲ海東岸のギリシア都市はリュディア王国の支配下にありました。しかしリュディア王国は、BC 546年にペルシアによって滅ぼされてしまいました。イオーニアのギリシア諸都市はペルシア王キューロスに、リュディアに服属していたのと同じ条件でペルシアに服属することを提案しましたが、キューロスによってその提案を拒否されました。ここでイオーニアのギリシア12都市が団結すればよかったのですが、自己主張の強い当時のギリシア人にとって、団結することが不得手でした。結局、各都市は個別にペルシア軍に対応することになりました。そのペルシア軍はというと、他のギリシア都市は置いておいて、最初にポーカイアを包囲しに来ました。

さてハルパゴス(=ペルシア軍の最高指揮官)は兵を進めてポカイアを包囲すると、もしポカイア側が(王への服属のしるしとして)城壁の胸壁を一つだけ取り壊(こぼ)ち、家屋を一軒献納すれば、自分はそれで満足しよう、と申し入れをした。しかしポカイア人は隷属に甘んずることを潔(いさぎよ)しとせず、一日間協議した上で返事をしたいと答え、自分たちが協議中は、軍隊を城壁から退けてほしいと要請した。ハルパゴスは、ポカイア人がどうするつもりなのかよく判っておるが、それでも協議することを許そう、と答えた。


ヘロドトス著「歴史」巻1、164 から

最初のギリシア都市だったからなのでしょうか、ペルシア側はかなりゆるい講和条件をポーカイアに提示しています。しかし、ポーカイアはペルシアに隷属することを受け入れるつもりはありませんでした。

 ハルパゴスが軍隊を城壁から遠ざけたすきに、ポカイア人は五十橈船を海におろして、女子供に家財全部をそれに載せ、神社の神像やそのほかの奉納物も、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞいては全部積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向って出帆した。こうしてペルシア軍は、もぬけの殻となったポカイアを占領したのである。


同上


船で脱出したポーカイア人たちはキオス島に向います。

ポカイア人はキオス人からオイヌッサイという一群の小島を買おうとしたが、キオス人はこれが商業の中心地となり、そのため自分たちの島が通商活動から締め出されるのを恐れて売却に応じなかったので、彼らはキュルノス(コルシカ島)へ向うことになった。というのもそれに先立つこと二十年、ポカイア人は神託に基き、キュルノスにアラリアという町を建設したからである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、165 から

上の引用文を読むと、遠いスペインのタルテッソスの王アルガントニオスのことが思い出されます。アルガントニオス王は、以前からポーカイア人たちに自分の王国のどこかに移住することを勧めていたのでした(「(4):タルテッソスとの交易」参照)。しかしこの時、アルガントニオス王は既に亡くなっていて、この世の人ではなかったそうです。ポーカイア人たちは最初、同じイオーニア系のキオスを頼りますが、キオス人には受け入れてもらえませんでした。次にポーカイア人たちは、20年前に建設した自分たちの植民市アラリアに向うことにしました。このアラリアはコルシカ島、当時の呼び方ではキュルノス島にありました。彼らがキュルノスにアラリアを建設したのは、かつてデルポイの神託が「キュルノスを建てよ」と告げていたからでした。ポーカイア人たちはこの神託を「キュルノスに町を建設せよ」という意味だと解したのでした。今回ポーカイアから逃げて来た人々は、神託の告げるキュルノスに行けば運が開けるのではないか、と考えました。

 キュルノス目指して出発したポカイア人たちは、先ずポカイアに航行し、ハルパゴスからひきついでこの町を警備していたペルシアの守備隊を殺し、これを首尾よく仕終えると、こんどは一行の内で遠征隊から脱落するものの身にふりかかるべき恐ろしい呪いをかけた。さらにこの呪いに加えて、真赤に焼いた鉄塊を海中に投じて、この鉄塊が再び海上に浮き上るまでは、ポカイアに戻るまいと誓ったのである。


同上

キュルノス島に向う決心をしたポーカイア人たちは、おそらく故郷に戻る可能性を自ら断つためだったのでしょう、ポーカイアを占領しているペルシアの守備隊の一部を襲って殺害したのでした。そして、次に故郷ポーカイアに戻らないという厳粛な誓い(「真赤に焼いた鉄塊を海中に投じて、この鉄塊が再び海上に浮き上るまでは、ポカイアに戻るまい」)を立てました。