神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(13):画家ピロクセノスと哲学者メネデーモス

その後、北方のマケドニア王国が勢力を伸ばし、ギリシアのほとんどを支配しました。エレトリアは独立を失いましたが、マケドニア支配下で新たな繁栄を迎えました。この頃の著名なエレトリア人として、画家のピロクセノスと哲学者のメネデーモスがいます。


マケドニアの王の中で一番有名なのが、アレクサンドロス大王アレクサンドロス3世)ですが、歴史の教科書などでよくアレクサンドロス大王の姿として出て来るモザイク画があります。下に示すような絵です。

もっとズームアウトすると下のようになります。

これは、イタリアのポンペイから出土したモザイク画で、ピロクセノスの時代よりだいぶ下るのですが、このモザイク画はピロクセノスが書いた絵をコピーしたものだと考えられています。他の証拠からこの絵は、アレクサンドロス大王が若くして死去してそれほど経たないBC 317年頃に、アレクサンドロス大王後継者のひとりである、マケドニア王カサンドロスから依頼されて製作されたものと推定されています。その頃、カサンドロスはエレトリアに住んでいました。


一方、哲学者のメネデーモスも同じ頃に活躍しました。その時代というのはアレクサンドロス大王がバビロンで若くして死去したのちの時代であり、彼の後継者が決まっていなかったため、有力な将軍たちが自ら後継者を名乗って、アレクサンドロスの帝国を分割し、それぞれの王国を作っていた時代です。マケドニア王国もその中のひとつでした。


メネデーモスは貴族の出身だったということです。彼はエレトリア政府からメガラへ兵士の一員として派遣されたのですが、もともと哲学に興味があったのか、その途中、アテーナイでプラトーンを訪問しました。そしてプラトーンの人柄に魅了され、軍隊勤務を捨てて哲学を学ぶ決心をしました。しかし、のちに生涯の友人になるアスクレピアデースという人物がメネデーモスの気持ちを変え、2人はメガラのスティルポンのところへ行き、その弟子になりました。次にはエリスへ行って、エリス学派の人々と交わり、その学説を故郷エレトリアにもたらしました。メネデーモスの活躍によってこのエリス学派はその後エレトリア学派と呼ばれるようになりました。ただ、「エリス学派」といい「エレトリア学派」といっても、残念ながら現代ではその学説や信条についてはよく分かっていません。


それはともかく、メネデーモスの見識はエレトリアの人々から頼りとされ、彼はエレトリアの政治にもたずさわるようになりました。

さて最初の頃は、彼はエレトリア人たちから犬だとか法螺吹きだとか言われて軽蔑されていた。しかし後にはたいへん尊敬されて、国事を託されるほどになった。そして彼は外交使節としてプトレマイオス*1リュシマコス*2のところに派遣されたのであるが、どこにおいても彼は重んじられた。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」 加来彰俊訳 第2巻第17章「メネデモス」より

エレトリアに対するメネデーモスの貢献とされるものに、マケドニア王デーメートリオスへの貢納金の減額を勝ち取ったというものがあります。彼はまた、デーメートリオスの王子で哲学を愛好するアンティゴノスの友情を得ています。このこともエレトリアがマケドニア王と交渉するのに役立ったことでしょう。

(上:アンティゴノス2世)


かといって彼には人に取り入る性格かというと、そうではなく、むしろ歯に衣を着せぬ人だったということです。彼と友人のアスクレピアデースがキュプロスの王ニコクレオンの宮廷に滞在していた頃のことですが、その王は毎月1回、哲学者たちを招いて宴会を開いていました。そこで王はこの二人も宴会に招いたのですが、メネデモースは宴会に出席した時に、

  • こうした人々の集まりが役立つというのであれば毎日でも催すべきである。そうでなければ、今日の宴会だって無駄だということになる。

と王に向って言い放ったのでした。王は負けずに、

  • 今日は哲学者たちの話を聞く暇が取れたのだ。

と言い返したのですが、メネデーモスは、

  • 哲学者からはあらゆる機会をとらえて話を聞くべきなのだ。

とさらに言い返した、ということです。そこに居合わせた哲学者たち(と呼ばれた人々)はこの王が残酷なことを知っていたため、このことで自分たちが王に殺されるのではないか、とひやひやしたのでした。その時は、宮廷の笛吹が(おそらく道化師の役割も果たしていたのでしょう)機転を利かせてうまく彼らを宴会場から連れ出したので無事だったのですが。


やがて王子アンティゴノスが即位してマケドニア王になると、メネデーモスはアンティゴノス王との親密な関係から、エレトリアをマケドニアに売り渡す者という中傷を受けました。そのため、彼はエレトリアを去り、対岸のオーローポスにあるアンピアラオスの神殿内でしばらく暮らしていました。しかし、ボイオーティア人たちが彼の退去を求めたので、ひそかに帰国し、妻と娘たちを連れ出して、アンティゴノス王の宮廷に亡命しました。そしてそこで傷心のうちにその生涯を閉じたのでした。


これで、私のエレトリアについての話は終わりです。

*1:アレクサンドロス大王の後継者のひとりで当時のエジプト王

*2:やはり後継者のひとりで、いっときはマケドニア王でした