神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(12):エウボイアの反乱(2)

エレトリアの対岸のオーローポスからアテーナイ側警備隊が追放されてから半年後、(スパルタが中心になっている)ペロポネーソス海軍がようやくオーローポスに到着しました。これを知ったアテーナイは、まだ自分たちに服していると思い込んでいるエレトリアを防衛するために艦隊を送り出しました。

ペロポネーソス側の船隊は、沿岸航路を進み、スーニオン岬を廻ると、トリコスとプラシアイの中間地点に投錨、後刻オーローポスに到着した。アテーナイ人は、本国は内乱寸前にあったけれども、一刻も早く、最重要の地を危険から守るべく(というのはエウボイアのことであり、アッティカの農耕地から閉めだされているかれらにとって、エウボイアは死活の要となっていた)、急場を凌ぐため万止むを得ず未熟練の船員を動員して、デューモカレースの指揮下に船隊をエレトリアに送った。これらは先般よりエウボイア近海を哨戒していた船隊と合流し、エレトリアに着いたときには総計三十六艘を数えていた。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻8、95 から



このアテーナイの艦隊はエレトリアに上陸し、乗組員たちは食糧を調達しにアゴラ(市場でもあり、政策を討議する場でもありました)に出かけました。ところがどうしたことか、この日に限ってアゴラには物が売られていませんでした。それで乗組員たちはアゴラよりもっと岸から離れた民家まで訪れていって、食糧を買う交渉に出かけていきました。つまり、乗組員たちは岸からかなり離れたところにいたのです。これはエレトリア側の計略でした。アテーナイ人たちが船からかなり離れたのを見たエレトリア人たちは、対岸のオーローポスのペロポネーソス艦隊に合図を送りました。たちまち、ペロポネーソス艦隊がエレトリア目指して攻めてきました。アテーナイ側も海戦の準備をしようとしたのですが、乗組員が乗り込むのに手間取り、不利な態勢で応戦することになったのでした。

それにもかかわらずアテーナイ勢は岸辺をあとに漕ぎ出すと、エレトリアの湾外沖合で海戦を決行し、しばらくの間は敵の攻撃を食いとめていた。だが間もなく陣を突きくずされて、海岸まで追跡された。乗組員の中で、エレトリアを友邦と信じてその町に庇護を求めて避難したものたちはみな、エレトリア市民らの手で惨殺されて、悲惨この上ない最期を遂げた。


同上

ここにエレトリアは公然とアテーナイに対して反乱したのでした。この戦いはペロポネーソス側が勝利し、エレトリアを含むエウボイア島のほとんどの町をアテーナイから離叛させました。

ペロポネーソス勢はアテーナイ船二十二艘を捕獲し、その乗組員の一部を処刑、他を捕虜にすると、勝利碑を築いた。その後間もなくして、かれらはオーレイスを除く(ここはアテーナイ人自身が占領していた)エウボイア全島の諸邦をアテーナイから離叛させ、エウボイアの一般施政の方針を取決めた。


同上


エウボイアが離反したという知らせは、アテーナイ市民を驚愕させました。なぜなら、アテーナイは食糧の多くをエウボイアに頼っていたからです。戦時において食糧の調達が滞ることは致命的でした。

エウボイアの悲報が伝えられると、かつてなき深刻な驚愕失望がアテーナイ人を襲った。というのは、たとえばシケリアにおける惨敗にしても、その当座は被害甚大であると思われたことは事実であるが、このように市民を恐怖のどん底に陥れることにはならなかったし、いわんやその他の諸事件などはこの比にはならなかった。なぜならば(中略)、手もとにはもはや残る船もなく乗組員の備えもなく、それのみか、本国市民は内乱の鉾をかまえて、いつ何どき同胞せめぎあう事態が勃発するやも知れぬとき、かくも徹底的な敗北が――船の損失もさることながら、何にもまさる痛撃は、かれらにとっては自国アッティカよりも大なる資源と頼むエウボイアを失ってしまったことであった――その上から襲いかかったのである。アテーナイの失望落胆も、きわめて当然のことと言われよう。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻8、96 から


今回の離叛はアテーナイに鎮圧されることはありませんでした。そしてBC 404年、アテーナイが降伏してペロポネソース戦争が終わりました。