神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(5):クレイステネースの婿選び

BC 572年にペロポーネソス半島のシキュオーンの僭主であったクレイステネースが、自分の娘アガリステの婿を全ギリシアから募集したことがありました。その時にエレトリアからはリュサニアスという人物が応募しました。

当時隆盛のエレトリアからはリュサニアスがきたが、エウボイアからの参加者は彼独りであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、127 から

この文章から察するに、BC 572年時点のエレトリアは国力が盛んだったようです。


残念ながらヘーロドトスはこのリュサニアスについてこれ以上のことは書いていません。それでも何か雰囲気が分かるかもしれないので、ヘーロドトスの伝えるこの話をご紹介したいと思います。

クレイステネスにはアガリステという娘があった。彼はギリシア中から最も優れた青年を選び娘の婿にしたいと考えた。そこでクレイステネスはオリュンピア競技の折――この時彼は四頭立戦車競走に第一賞を得たのであったが――公告して、ギリシア人にしてわれこそはクレイステネスの女婿たらんと思う者は、六十日目まで、もしくはそれ以前にシキュオンに来たれ、六十日目より数えて一年以内にクレイステネスは娘の婚儀をとりきめるはずである、と触れさせた。そこで自らや祖国に自信をもつほどのギリシア人はことごとく、求婚者としてシキュオンに続々到来した。クレイステネスはこれらの者たちの用に宛てるため、わざわざ競走路や角力場を作って用意しておいたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、126 から

ギリシア中から人の集まるオリュンピア競技(いわゆる古代オリンピック)の場で、シキュオーンの僭主クレイステネースは自分の娘の婿を募集すると、従者を使って触れ回らせたのでした。しかも彼は戦車競走で優勝していたのですから、この募集は人々の注目を集めたに違いありません。そこで「自らや祖国に自信をもつほどのギリシア人はことごとく」シキュオーンにやって来たのでした。彼らはシキュオーンの近くの、アルゴス、アテーナイ、アルカディア地方、エーリス地方、アイトーリア地方からも来ましたが、遠いところでは南イタリアギリシア人植民市であるシュバリスからもやってきました。求婚者たちの故郷のだいたいの位置を以下に示します。


クレイステネースは、彼ら青年たちを1年間自分の手許に留めて、面接し、試験して、娘にふさわしい男を選んだのでした。もちろん、そのための費用はクレイステネースが賄いました。

以上が求婚者の面々であったが、彼らが指定された日までに到着すると、クレイステネスは先ず彼らの生国と各自の家柄を訊ね、それから一年間自分の手許に置き、あるいは個別的に、あるいは集団的に面接しては、求婚者たちの能力、性向、教養、行儀などを綿密に試験した。求婚者の内比較的若い者は体育場に連れて行ったりもしたが、何といっても会食の折に彼等を試してみることが最も多かった。というのは彼が青年たちを手許に置いていた期間中、クレイステネスはあらゆることを試みるかたわら、彼らを盛大にもてなしたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、128 から


エレトリアのリュサニアスがシキュオーンでどんな振舞いをしたのか分かれば面白いのですが、ヘーロドトスは何も書き残してくれませんでした。結局、婿に選ばれたのはアテーナイからやってきたアルクメオーンの子メガクレースでした。しかし、クレイステネースの以下の言葉からするとどの青年も立派だったようです。

「娘に求婚してこられた諸君よ、わしはそなたらがいずれも立派な青年であると感心しておるし、できることならそなたらの中から唯一人だけを選んで残りの人々を拒むというようなことをせずに、そなたら全部を喜ばせたいと願っているくらいじゃ。しかしながら嫁にやるべき娘は一人しかおらぬのであるから、皆の意に添うことはできない。そこでそなたらのうち縁談からはずされた方々には、わしの娘を娶ろうとして下さった好意を謝し、永らく家郷を離れさせた償いをする意味で、各人に銀一タラントンを贈呈することにしよう。しかしわが娘アガリステは、アルクメオンの子メガクレスに、アテナイの法に従い婚約させることにする。」


ヘロドトス著「歴史」巻6、130 から

リュサニアスも「能力、性向、教養、行儀など」において他の求婚者たちに引けを取らなかったことでしょう。リュサニアスは騎馬の戦士としての貴族の家系の一員であったと想像します。アリストテレースが古い時代のエレトリアの政治体制について、次のように書いているからです。

古い時代において国の勢力が馬匹によっていたところでは何処ででも寡頭制がとられた。そして隣国との戦争のために馬を使用するのと常としていた、例えばエレトリア人たちやカルキス人たちやマイアンドロス河畔のマグネシア人たちや、その他アジア地方の多くのものがそうである。


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第4巻3章3節より