神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(2):母市レフカンディ

一方、考古学からはエレトリアの起源がBC 825年頃と推定されています。これはトロイア戦争がもしあったとした場合の推定年代であるBC 13世紀またはBC 12世紀に比べると、随分新しい年代で、トロイア戦争よりも約400年のちのことになります。このような考古学による推定を、ご紹介したいと思います。


エレトリアの北西には、レーラントス平野という肥沃な平野が広がっています。

このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに古代の遺跡があります。この遺跡であった町が活動していた古代に、この町が何と呼ばれていたのか、現代では分からないままです。それで考古学者の間では、この遺跡を、近くにある現代の村の名前を取ってレフカンディという名前で呼んでいます。レフカンディはあくまで仮の名前で、本当の名前は分かりません。一部の学者はその名前をアルグラと推定しています。さてこのレフカンディですが、考古学的な証拠からBC 825年頃に大きな破壊を受けた、と推測されています。そしてその後、レフカンディの人口が減り始め、一方その東のエレトリアでは人口が増大し始めています。このことから、レフカンディが何者かによって破壊されたのち、その住民の多くがエレトリアに移住した、と考えられています。また、エレトリアの名前はギリシア語のエレテース(船の漕ぎ手)に由来しており、「船乗りの町」の意味である、とも推定されています。この名前はエレトリアがレフカンディの港として建設されたことを暗示しています。以上のことから、エレトリアはBC 9世紀にレフカンディの港として建設され、BC 825年頃のレフカンディの破壊ののち、レフカンディの住民を受け入れて独り立ちした、と考えられています。


もし以上の推定が正しいのであるならば、「(1):エレトリア建設」で引用したイーリアスの詩行は歴史を反映しておらず、むしろホメーロスが生きていた時代にエレトリアという町が存在していたために、ホメーロスがその地名をイーリアスに詠み込んだものと解釈したほうがよさそうです。しかし、シロウトである私にはそこまで断言出来ません。ホメーロスをもっと信頼したい気持ちがあります。ギリシア英雄伝説の時代に対応するとされるBC 14~13世紀の頃、エレトリアの地には人は住んでいなかったのでしょうか? 実はその時代の遺跡も見つかっているそうです。しかし、それは監視所であると解釈されていて、またその頃、住んでいた人口も少ないと推定されています。そして、この監視所はギリシアが暗黒時代に突入すると放棄されたということです。だとすれば、ギリシアの英雄時代にエレトリアの町が存在したとは、やはり言えなさそうです。一方、レフカンディの町はBC 14世紀以前からBC 7世紀初頭まで絶えることなく人が住み続けていました。


それでもあきらめ切れない私は、あるいはレフカンディがエレトリアの名前で呼ばれていたのではないか、とも考えました。しかし、根拠はありません。


ところでレフカンディを破壊したのはどこの町の住民でしょうか? 位置的にはそのすぐ北にあるカルキスが一番あやしそうです。しかし、このあとエレトリアとカルキスは共同して各地に植民市を建設しているので、エレトリアとカルキスの関係が良好なことがうかがわれます。もしエレトリアの前身であるレフカンディを破壊したのがカルキスだとすると、このような良好な関係は考えにくいです。このような理由から私は、レフカンディを破壊したのはカルキスではない、と考えています。ではどの町がレフカンディを破壊したのか? 私には分かりません。


レフカンディの破壊から約70年後、エレトリアとカルキスは共同で植民市ピテクーサイを建設します。ピテクーサイは今のイスキア島で、イタリアのナポリの沖にある島です。

(上:イスキア島)


 また、ピテクーサイ建設と同じ頃、エレトリアとカルキスは共同で、今のトルコとシリアの国境近くの地に植民市を建設しています。この植民市も古すぎて当時の名前が分かっていません。考古学者は現代の地名を用いてこの町の遺跡をアル・ミナと呼んでいます。トルコのシリア国境に近い場所です。このようにイタリアからシリアまで東西に広く、エレトリアとカルキスの通商ネットワークが確立されたのでした。アル・ミナは当時の先進地域であり、一方イタリアやシシリー島は後進地域だったと思います。このようにさまざまな文化程度の民族間の通商でエレトリアとカルキスは利益を得、繁栄を享受していたようです。


さらに、エレトリアは対岸のボイオーティアに領土を持ち、南方の島々も支配していました。