神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コース(9):城壁の建設


 前回の「ヒポクラテース(2)」の最後に引用したトゥーキュディデース「戦史」の文には、コースの町には城壁が元々なかった、という記述がありました。ということは、今まで外部からの脅威があまりなかった、ということでしょう。前回の引用を再び以下に示します。

その間に、カウノスからの知らせが、船二十七艘とラケダイモーンからの顧問官らの到着を告げた。するとアステュオコスは、この際他のことを一切後廻しにしても、より強力な制海権を得るためには、先ずはこの大船隊を護衛誘導せねばならぬ(中略)と考えるや(中略)カウノスへ船をすすめた。そして沿岸航行の途次メロピスのコースに上陸、この町には本来城壁の備がなく、しかもちょうどその頃、われわれの記憶する限りでは、最大の地震がここを襲って、全市倒壊の状態にあったところを襲撃し、住民が山岳地帯に避難している虚をついて、耕地を縦横に蹂躙して略奪品を獲得したが、市民の身柄には手を触れず、これらを釈放してやった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8、41 から

 あらためて上記の文を読んでみると、コースはひどい目に遭わされています。スパルタの将軍アステュオコスは、自分の国からの船を迎えるためにカウノス(コースより東の大陸側にある港町)に艦隊で向かったのでした。そしてその途中で、ひどい地震がコース島を襲ったことを知った(「ちょうどその頃、われわれの記憶する限りでは、最大の地震がここを襲って、全市倒壊の状態にあった」とあります)のでした。すると、アステュオコスはこれをチャンスと考えてコースを襲撃したのです。コースはアテーナイのデーロス同盟に参加しているので、スパルタからすれば確かに敵国ではあります。敵国ではありますが、元々城壁を持っていなかったことから考えて、軍事に力を入れずに今まで過ごしてきた町で、スパルタに対して少しも敵対行為を行ったことはなかったことでしょう。そのうえ、アテーナイ海軍もここには停泊していませんでした。そんな町を、ちょうど大地震が来たからといって襲って町を略奪する、というのはひどい話だと私は思います。戦争とはそういうものだ、と言われてしまえばそれだけなのですが。


 このあと、コースを出発したアステュオコスの艦隊は、アテーナイ艦隊に遭遇し、海戦となり、アテーナイ艦隊を破ります。それからまもなく、コース島の南にあるロドス島がアテーナイ側からペロポネーソス側に寝返ります。こうなるとロドス島に近いコース島がアテーナイ海軍にとって重要になってきました。アテーナイ海軍はコース島の基地化を進めます。まずは、コースの町に城壁をめぐらしました。

(アルキビアデースは)ハリカルナッソスに赴いて市民から強制的に多額の資金を調達し、コースに城塞を構築した。これらの措置を終ると、コースに施政官を留めて、やがて秋に入ろうとするころサモスに帰港した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8、108 から

 アテーナイの将軍アルキビアデースが、コースとは目と鼻の先にある、大陸側の町ハリカルナッソスに行って、ハリカルナッソス市民から強制的に資金を提供させて、その資金でコースに城壁を築いたのでした。かつてペルシア王クセルクセースがアテーナイに侵攻した頃には、コースはハリカルナッソス支配下にありました。それでたぶん、ハリカルナッソス市民はコースを自分たちより下に見ていたことでしょう。そのハリカルナッソス市民に資金を出させた、というところに私は一種の痛快さを感じます。しかしアルキビアデースはコースに自由を与えず、施政官を置いてアテーナイの支配下においたのでした。


 コース島はアテーナイ海軍の基地のひとつとなったのですが、BC 407年、最終的にアテーナイはスパルタに降伏します。コースはアテーナイの支配に代わってスパルタの支配を受けます。その後、スパルタとアテーナイは再び戦火を交え(BC 395~387年 コリントス戦争)、そこにペルシアも介入してきます。BC 387年のアンタルキダスの和約によって、コースはペルシアの支配下に戻ります。そのペルシアの支配も、アレクサンドロス大王がペルシアに侵攻することによって終わりを告げました。