神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(11):アルテミス神殿再建

 アルテミス神殿炎上の年に生まれたマケドニアアレクサンドロス(のちの大王)は、父親の急死により20歳でマケドニアの王位を継ぎます。そして2年後のBC 334年には小アジアに軍を進め、迎え撃つペルシア軍を蹴散らしました。それからアレクサンドロスとその軍は、小アジアエーゲ海沿岸を南下して、その道筋にあるギリシア都市を次々にペルシアの支配から解放していきました。アレクサンドロスの軍が近づくと、エペソスでは到着より前に市民たちが反乱を起し、ペルシアによる支配に協力していた当時の僭主シュルパクスを殺害してしまいました。そして、アレクサンドロスのエペソス入城を歓迎したのでした。

(上、アレクサンドロス大王


 この時、アルテミス神殿の再建工事はまだ本格的には始まっていませんでした。それを知ったアレクサンドロスは資金援助をエペソス市民に申し出ました。しかしエペソス市民はその申し出を断りました。結局、エペソス市は(アレクサンドロスが若くして死んだあとでしたが)自力でアルテミス神殿の再建を始めたのでした。BC 323年のことです。


 ここで歴史を振り返ってみると、最初のアルテミス神殿はBC 7世紀に洪水によって倒壊し、リュディア王クロイソスの支援でBC 650年頃に再建されたのでした。その神殿は今度はBC 356年にヘロストラトスの放火によってまた倒壊しました。ですので今回再建する神殿が3番目の神殿になります。それは2番目の神殿よりも大きなものになりました。神殿は長さ137 m、幅69 m、高さ18 mで、127本以上の円柱があり、円柱は金や銀で装飾されていました。壁は壁画で飾られ、ポリュクレイトスやペイディアスのような古典期の有名な彫刻家の作品も収蔵されていたそうです。彫像の中には、エペソスの伝説上の建設者とも言われ、エペソスのアルテミスの従者であったとも言われる、アマゾーン族を彫ったものもありました。このような神殿が、BC 2世紀に「世界の7つの驚異」の1つとして数え上げられることになるのでした。

エペソス(2):アルテミス神殿」で紹介したように「シドンのアンティパトロス」は、この時の神殿を以下のように形容したのでした。

私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて太陽はこれほどのものを見たことはなかった」


今度の神殿は600年ぐらい持ちました。そしてその頃にはキリスト教ローマ帝国に広がりつつありました。最終的にはキリスト教が勝利することによって、アルテミス神殿は廃れていったのでした。 


 アルテミス神殿が再建された頃に生まれたエペソス人に、文法学者で文学研究者のゼーノドトスがいます。彼はプトレマイオス朝のエジプトに渡ってプトレマイオス2世の家庭教師となり、また、アレクサンドリア大図書館の初代の館長になっています。図書館における彼の同僚には、アイトリアのアレクサンドロスとカルキスのリュコプロンがいて、彼らはそれぞれ悲劇詩人と喜劇詩人を研究しました。一方、ゼーノドトスは叙事詩人を研究しました。彼はホメーロス叙事詩の校訂本を編集して、後世の研究のためのしっかりとした基盤を作りました。また、アレクサンドリア大図書館の館長としては、本をその著者の名前のアルファベット順に並べるという方法を導入した功績があります。