神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(18):イオーン

ペロポネーソス戦争の後期に起きたキオスの反乱についてご紹介しましたが、そのネタ元のトゥーキュデュデースの「戦史」には、キオス人の名前が出てきません。それでキオスを主体にしてご紹介しようとすると、個人名での叙述ではなく、「キオスの貴族派の人々は」とか「キオスの当局は」とかいう叙述になってしまい、迫力に欠けたものになってしまいました。「戦史」ではアテーナイとスパルタの人々の個人名はよく出てくるのですが、キオスについては、トゥーキュディデースは個人名まで調査しなかった(あるいは、調査出来なかった)ようです。唯一の例外は

キオス側はと見れば、すでにそれまでの歴戦の結果に意気沮喪しているのみか、とくにその内部事情がはなはだ芳しからぬ様相を呈していた。というのは、イオーンの子テューディウスらの一派がアテーナイ同調主義のかどで、ペダリトスの命令によって処刑されていらい、残った市民らはみな強制的に貴族派の桎梏下におかれることとなって、かれらは互いに猜疑の念をつのらせながら成り行きを静観している有様であった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・38 から

という記事にある「イオーンの子テューディウス」です。彼はキオスにおける親アテーナイ派の主要人物であるように書かれています。例外的に名前を書いているのは、この人物の父親イオーンがアテーナイ人によく知られた人物、つまりアテーナイで活躍した悲劇詩人のイオーンと同一人物であるため、と推測されます。そこで今回は、時代がさかのぼってしまいますが、このキオス人イオーンについてご紹介します。


イオーンの生年は英語版のWikipediaの「キオスのイオーン」の項によれば、だいたいBC 490~480年ということで、正確な年は分かりません。彼は若いうちにアテーナイにやってきて、その頃のアテーナイの大政治家キモーンの面識を得ました。

イオーンの言うところでは、自分が非常に若かった頃キオスからアテーナイに来てラーオメドーンの家の宴会でキモーンと同席したことがある。酒を灌ぐ式が済んでキモーンは歌を所望され、なかなかうまく歌ったので、席にあった人々はテミストクレースよりも器用だとほめた。


プルータルコス「キモーン伝 9」より。(原文の旧かなづかいや旧漢字を改めました。)

どうも彼の才気がキモーンの気に入られたらしく、若きイオーンはキモーンの取り巻きの一員になりました。そのため、後にイオーンはキモーンの人柄を称賛する文章を発表し、同じ文章の中でキモーンの政敵で、のちにキモーンに取って代わってアテーナイの主導権を握るペリクレースを非難しました。

詩人のイオーンも言っているように、キモーンの容姿は立派で丈も高く、ふさふさとした多い髪の毛が頭を覆っていた。


プルータルコス「キモーン伝 5」より。(原文の旧かなづかいや旧漢字を改めました。)

詩人のイオーンは、ペリクレースの人に接する態度が横柄で失敬であり、その思い上がった様子には他の人々に対する無視や軽蔑が多分に混ざっていると説き、キモーンの交際ぶりに現れた節度と慇懃と教養をほめている。


プルータルコス「ペリクレース伝 5」より。(原文の旧かなづかいや旧漢字を改めました。)

イオーンにとってキモーンは父親の世代にあたり、一方ペリクレースは自分より少し年上の同世代にあたります。キモーンは当時のアテーナイ政界の貴族派の代表であり、ペリクレースは民衆派の代表でした。もっとも民衆派といってもペリクレースは母方が大貴族アルクマイオーン家の出身でした。


当時の人気の悲劇作家アイスキュロスとの親交を得たのも、このキモーンを中心とする人脈によるようです。イオーンは悲劇の創作にも興味を惹かれましたが、自分にアイスキュロスに匹敵する作品が作れるとは思えず、アイスキュロスが亡くなるまで、自作の悲劇を公表しようとはしませんでした。彼は気質として一定のジャンルに納まるたちではなく、ピュータゴラースの哲学や評論や抒情詩にも興味を持っていました。残念ながら悲劇詩人としての彼は二流で、その他のジャンルでも独創的なものはなかったようです。現在ではわずかな作品のタイトルと、もっとわずかな断片が残っているだけです。イオーンが初めて悲劇のコンクールに参加したのは、BC 452年でした。当時のアテーナイでは悲劇はコンクールとして上演されたのでした。つまり審査員が投票して悲劇の出来の良し悪しの順位をつけていたのでした。イオーンの作品はなかなか優勝することは出来なかったのですが、その頃にはソポクレース、エウリピデースといった現代まで作品が残る優れた悲劇詩人がいたのですから、無理のないことです。それでも彼の作品にある一種エレガントな機知が当時のアテーナイ人の嗜好に合い、人気があったようです。


BC 452年にはアテーナイ政界は完全にペリクレースの手中にありました。キモーンはBC 461年に陶片追放にあってアテーナイを追放され、BC 452年時点でもアテーナイへの帰国は許されていませんでした。キモーンが不在の中で悲劇の上演が出来たということはイオーンはそれまでに独り立ちすることが出来たのか、あるいは新たなパトロンを得ることが出来たのでしょう。


英語版のWikipediaの「キオスのイオーン」の項によれば、イオーンが悲劇のコンクールで優勝した記録が1つ残っているそうです。そしてその際にイオーンはアテーナイ市民全員にキオス産のワインを振る舞ったそうです。キオス産のワインは上等なワインとして有名でした。そしてこの話からイオーンはかなりの資産を持っていたことが推測されます。


イオーンはペロポネーソス戦争が始まった頃には生きていたようですが、キオスがアテーナイから離叛する頃にはすでに死亡していました。キオスがアテーナイと対立する前に世を去ったことは彼にとって幸運なことだったことでしょう。しかし残された息子のテューディウスにとっては、そうではありませんでした。彼はキオスでの親アテーナイ派の中心人物になっており、キオスがアテーナイから離叛してアテーナイ軍の包囲を受けた時に、親アテーナイ派であることを理由にスパルタ人ペダリトスの命で処刑されたのでした。