神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア)(7):ペラスゴイ人の来襲

ソーポクレースの悲劇「ピロクテーテース」は良く出来たお話ですが、レームノス島が無人島になっている点がつじつまが合いません。レームノス島に人がいるのならば、困っているピロクテーテースを助けたことでしょう。実際、そういう異伝も伝わっています。それによると、ピロクテーテースはレームノス島のヘーパイストス神の神官たちにから治療を受けた、ということです。特にヘーパイストス神の子であるピュリオスによって傷が治療されたので、喜んだピロクテーテースはピュリオスに弓術を授けたそうです。


ピロクテーテースの弓の力もあり、トロイアは陥落します。その後、ホメーロスの「オデュッセイアー」によれば、ピロクテーテースは無事故郷に戻ることが出来た、ということです。以下の場面は、ピュロス王ネストールが、自分のところに訪ねて来た、オデュッセウスの息子テーレマコスに対して話しているところです。

しかし私(わし)らが館うちに、坐っていながら、耳にした限りは残らず
申し上げよう、それが正しく然るべきこと、秘(かく)し立てはけしてすまい。
噂では、槍に名を獲たミュルミドーンらは、恙(つつが)もなく帰国したげな、
武勇にすぐれるアキレウスの、誉れかがやく子息の指揮で。
同じく無事に、ポイアースの立派な子息、ピロクテーテースも戻ったとか。
イードメネウスも、自分の部下を残らずつれてクレーテー島へ立ち帰った、
この連中は、戦場を脱け出てからは、一人として海上でも奪(と)られなかった。



ホメーロスオデュッセイアー」第3書 呉茂一訳 から

ヘーラクレースの勧告を聞いたことが彼の境遇を好転させたのでした。


さて、トロイア戦争が終わった時にレームノス島でどんな出来事があったのか、残念ながら伝わっていません。次に伝説に登場するのは数世代あとの話です。この時、レームノス島にペラスゴイという民族がやって来て、今までの住民を追放したのでした。

アルゴー船に乗り組んだ勇士たちの子孫は、ブラウロンからアテナイの女たちを誘拐した例のペラスゴイ人のためにレムノス島を追われ、海路スパルタに向った。


ヘロドトス著「歴史」巻4、145 から

ペラスゴイ人というのは現代では謎になってしまった民族で、ギリシア先住民族だとも言われています。ヘーロドトスによればアテーナイ人は昔はペラスゴイ族であったが、やがてギリシア語を話すようになってからギリシア人をみなされるようになった、とも言っています。

アテナイ人は古くはペラスゴイ民族であり、ラケダイモン(=スパルタ)人はヘラス(ギリシア)民族であった。前者がかつて他へ移住したことがなかったのに対し、後者は幾度も移動を重ねた民族である。(中略)
 ペラスゴイ人がどういう言語を話していたかについては、私には確かなことは判らない。しかし今も残存するペラスゴイ人(中略)によって判断してよいというのならば、彼らの言語は非ギリシア語であったらしい。ところでペラスゴイ族全般について、右のことがいえるとすれば、アッティカの住民たち(=アテーナイ人)は、もとペラスゴイ系であったのであるから、ギリシア民族に吸収されたとき、同時にその言語も変えたことになる。


ヘロドトス著「歴史」巻1、56~57 から

おそらく古典時代のギリシア人の中にはペラスゴイの血をひく人々も多くいたのでしょう。追放されたアルゴナウタイの子孫はギリシア本土のスパルタに向かったのでした。それからあとの彼らについての話は「テーラ(4):ミニュアイ人たち」を参照下さい。ここでは、レームノス島を乗っ取ったペラスゴイ人たちについてお話しします。




(右:ミュリーナの町)

ヘゲサンドロスの子ヘカタイオスはその著書の中で、(ペラスゴイ人のアテーナイからの)放逐は不当のものであったといっている。それによればアテナイ人は、アクロポリスにめぐらした城壁構築の労に報いるため、自発的にヒュメットス山麓の土地をペラスゴイ族の定住地として与えたのであったが、もとはとるに足らぬ貧弱な土地であったのが、立派に開墾されたのをみたアテナイ人は、その土地が嫉ましくなりわがものとしたい欲望にかられた結果、それ以外格別の理由を設けることもなくペラスゴイ人を放逐したというのである。
(中略)右のような次第でペラスゴイ人はアテナイの地を去り、諸方に住みついたのであるが、レムノスもそのうちの一つであったというのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、137 から


ここで気になる点があります。前述の箇所でヘーロドトスは、アテーナイ人はもともとペラスゴイ人だった、と言っているのですが、上の記述ではアテーナイ人とペラスゴイ人は別の集団となっている点がそうです。これについては、次の記述が参考になりそうです。

アテナイ人は当時既にギリシア人の数に加えられていたが、そこへペラスゴイ人が移ってきてアテナイの国土に共に居住するようになったもので、それ以来ペラスゴイ人もギリシア人と見做されるようになった。


ヘロドトス著「歴史」巻2、51 から

ペラスゴイ人がどこからアテーナイにやってきたのかが気にはなりますが、それを一旦わきに置いておくと、アテーナイ人がギリシア化されたのちに、とこからかやってきたペラスゴイ人が、アテーナイのアクロポリスに城壁をめぐらすことを条件にアテーナイに住みついた、ということになりそうです。