神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア)(6):ピロクテーテース

トロイア戦争に参加したピロクテーテースは、テッサリアのマグネシアのメートーネーという町の王でした。ピロクテーテースがレームノス島に置き去りにされた話は古いものらしく、すでにホメーロスの「イーリアス」に、以下のように語られています。

さてその次はメートーネーや タウマキエーに住まう人々
またメリボイアや、岩の多いオリゾーンを領する者ら、
その人々に大将たるは 弓矢のわざに秀でたるピロクテーテースで
船七艘を率いて来る。その各々に乗り組んでいる漕ぎ手の数は
五十人、しかもみな弓矢のわざに優れたる 戦さのてだれ。
だが彼は激しい苦痛に悩みつつ、かの島に身を伏せていた、
いとも聖いレムノス島に。そこへ彼を アカイアの息子らどもは、
凶悪な水蛇(ヒュドラ)に咬まれ 酷い手傷に苦しんでるまま 置いて来たのだ、
その処に、まだかこちながらも臥してたものの、程なくアルゴス勢は
船のかたえで ピロクテーテースの殿を 思い出さねばならなかった。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳から

上の引用中で「アカイアの息子らども」や「アルゴス勢」というのはギリシア将兵のことを指しています。この記述では、ピロクテーテースがヒュドラに咬まれて苦しんでいることと、ギリシア軍が彼をレームノス島に置き去りにされたことが、述べられています。しかし、レームノス島が無人島であったとは書かれていません。それどころか、「(5):トロイア戦争」でご紹介したように、レームノス島からトロイアの海岸に陣取っているギリシア軍に葡萄酒が贈られてきていますから、イーリアスではレームノス島に社会が存在した想定になっています。



(ピロクテーテース)


ところが、それより後の世に出来た、ソーポクレース作のギリシア悲劇「ピロクテーテース」では、ピロクテーテースの境遇をよりひどいものにするためでしょうか、レームノス島が無人島として描かれています。

オデュッセウス
これが海に囲まれたレムノスの岸辺だ。おとずれるものもない無人の島。アキレウスの子よ、ヘラスに勇名がとどろく父をもつネオプトレモスよ、わたしがポイアスの子、ピロクテテスをここにおきざりにしてから、ずいぶん時がたつ。大将たちの命令で、やむをえずそうしたのだが、肉がくさる病気のためにやつの足はただれおち、あのときばかりは困ったな。静かにお神酒をそそぐことも、犠牲をささげることもできなかった。われわれ全軍が耳をおおったものだ。いやその叫び、うめき声ときたら、たまったものではなかったぞ。だがむかしのことはもうよかろう。いまは長話のときではない。わたしがいることを、やつに感づかれてはまずい。わけなくやつを捕えるわたしの名案が台なしだ。


ソーポクレース作「ピロクテーテース」 久保正彰訳 より


ソープクレースの「ピロクテーテース」は優れた劇作で、普通に読んでいて面白いです。多少の背景、風習の違いを乗り越えれば、この作品が2500年近く昔のものとは思えない、現代にもありそうな話です。ギリシア悲劇と呼ばれていますが、この劇はハッピーエンドに終わります。主題は英雄ヘーラクレースが死ぬ間際にピロクテーテースに贈った弓です。それは英雄的精神の象徴でもあります。


ピロクテーテースはヘーラクレースを神のように尊敬して、その弓を大事にしています(実際、彼は神になったのでした)。ピロクテーテースはその弓を用いてトロイアの戦場で大活躍するつもりだったのですが、トロイアへ向かう途中、クリュセーという島で、ある神域を守る蛇にふくらはぎを咬まれてしまいます。蛇の毒は咬んだあたりを腐らせ悪臭を放ち、ピロクテーテースに激痛を与えることになったのでした。ギリシア軍がレームノス島に上陸した時、ピロクテーテースは痛みの発作の後、昏睡状態になっていましたが、彼をその状態のまま置き去りにしてギリシア軍はトロイアに出発したのでした。そしてトロイア戦争は10年続きます。置き去りにされたピロクテーテースはその間、その島から出ることもなく、無人島なので誰の助けも得られず、みじめな暮らしをしながら(とはいえ弓の名人なので獲物を取って食料にしていました)ギリシア軍の大将たちを恨み続けていました。


長い戦争の間に英雄アキレウスをはじめ優秀なつわもの達を失い、ギリシア側はトロイアを攻めあぐねていました。そんなある時トロイアの予言者ヘレノスがギリシア側に捕えられます。ヘレノスが言うには、トロイアを陥落させるためにはアキレウスの息子ネオプトレモスと、ピロクテーテースの持つ弓の両方が必要である、そう神意が定められている、と言うのでした。さっそくネオプトレモスがトロイアに呼び出されました。ピロクテーテースについては、知恵や謀略に長けたオデュッセウスが、若いネオプトレモスを連れてレームノス島に向かい、ピロクテーテースを連れてこようとしたのでした。劇はその時点から始まります。


オデュッセウスはネオプトレモスに一芝居打たせて、ピロクテーテースを油断させたうえで捕えるように命じます。その芝居というのは、ギリシア軍の大将たち(そのなかにはオデュッセウスも含まれています)を恨み続けているピロクテーテースの同情をひくためのもので、ネオプトレモスがギリシア軍の大将たちと仲たがいして故郷に帰るところだ、自分は彼らを恨んでいる、というものです。直情な若者ネオプトレモスは気が進まないもののギリシア軍のためと思って、この役目を引き受けます。やがてネオプトレモスはピロクテーテースに出会い、筋書き通りに事が進みピロクテーテースの信頼を得ます。故郷に帰るというネオプトレモスにピロクテーテースは一緒にギリシア本土に連れていってくれと頼み、ネオプトレモスは承知します。しかしだんだんネオプトレモスは自分の嘘に耐えられなくなっていきます。ピロクテーテースの弓を手に入れたあと、ついに本当のことを告白します。驚き憤慨するピロクテーテース、どうしたらよいか分からないネオプトレモス、その場にオデュッセウスが現れてネオプトレモスを叱咤します。オデュッセウスの部下に捕えられたピロクテーテースは激高してオデュッセウスに言います。

ピロクテテス
おお口惜しい、わしの弓を手ばなしたばかりに、こやつらの手におさえられた!(中略)みしらぬこの若者をおとりにつかい、よくもわしをわなにおとしたな! 見ろ、この若者のようすを。おまえの連れには惜しい、友に持ちたいほどの人間だ。命令どおりにするよりほかに、どうしてよいか知らなかったのだ。だからいまになって顔色をうしなっている。過ちに気づき、わしの難儀を悔いておるわ。悪にそまぬ、いやそまる意思もないこの若者をまどわして、抜け目のない悪者にしたてたのは、きさまだ!


同上

ネオプトレモスは一旦はオデュッセウスに従うが、長い間躊躇したのちにまた戻ってピロクテーテースに弓を返します。そして理性的にピロクテーテースにトロイア行きを説得しようとします。

あなたが、ほんとうに病いの回復をのぞむなら、かなう道はただ一つ。あなたがすすんでトロイアへ行き、陣中でアスクレピオスの子らの手あてをうけなければ、けっしてその病いはいやされぬ。


同上

しかしかつての恨みを忘れることが出来ないピロクテーテースは同意しません。その様子を見てネオプトレモスはピロクテーテースと一緒に故郷に帰る決心をします。その時ピロクテーテースの眼前に、神となったヘーラクレースが出現します。そしてトロイアに行って手柄を立てるように勧めるのでした。

ヘラクレス
しばらくまて、ピロクテテス、
予の言葉がおわるまで、去ることはならぬ、
汝がきくのは、ヘラクレスの声、
汝の眼にうつるのは、予の顔だ、
予は、汝にゼウスの御心をつたえ、
汝の道をあらためんがために、
大空の座をあとにして、ここにあらわれた。
こころして、予の言葉をきけ。


まず、予の運命の試練をいって聞かせよう。予がどれほどの苦しみにたえ、困難にうちかって、いまそなたの眼にうつる、不死のアレテー(=徳)の主となったか、よく思うがよい、そなたにしても同じことだ。苦悩にみちたけわしい運命は、くるしみぬいた生涯のはてを、栄えあるものとするために、神があたえた賜物だ。
 いけ、この若者とともに、トロイアの城へ、まずいたましい病をいやす、つぎに陣中並ぶものない勇士のほまれをえて、この戦いと禍いのもとパリスめを、予の弓と矢でしとめ、トロイアの城をおとすのだ。並びない功(いさお)をほこる勝利の品々を、ふるさとの広間にかざり、父ポイアスやオイタの嶺と、その喜びをわかつのだ。


同上


尊敬するヘーラクレースの言葉を聞いて、ピロクテーテースはトロイアに向かう決心をし、劇は終わります。