神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア)(10):ミルティアデース

さて、レームノス島のペラスゴイ人たちがアテーナイ人に対して「北風を受けた船がアテーナイからわがレームノスまで一日で達することができた暁には、レームノスを引き渡そう」と捨て台詞を吐いたところで伝説は途絶えてしまいます。このあとは伝説のない時代が500年ぐらい続きます。その後、ペルシアが勢力を伸ばしてきて、レームノス島もその攻撃にさらされます。それはBC 512年頃のことと思われます。

オタネスが、この時メガバソスの後継者として軍隊の指揮をとることになったのであるが、彼はビュザンティオンとカルケドンを占領し、さらにトロアス地方のアンタンドロス、ついでランポニオンを攻略し、さらにはレスボスから艦船を奪取して、レムノス、インブロスの二島を占領した。この両島には当時もなお、ペラスゴイ族が住んでいた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、26 から

オタネスというのはペルシアの将軍のひとりです。さて、ヘーロドトスは「この両島(レームノス島とその東隣のインブロス島)には当時もなお、ペラスゴイ族が住んでいた」と記しています。当時、ペラスゴイ人はレームノス島の主要な民族だったのでしょうか? それともこの頃すでにギリシア人が主要な民族だったのでしょうか? ヘーロドトスの記述からはどちらとも判断出来ません。


ヘーロドトスは続きの文章では、単に「レームノス人」と書いているだけで、その「レームノス人」がペラスゴイ人を指すのか、ギリシア人を指すのか、判然としません。

レムノス人はよく戦い、かなりの時日もちこたえたが、遂に制圧され、ペルシア側はサモスの王となったマイアンドリオスの兄弟である、リュカレトスを総督に任じて、生き残った島人を統治させた。このリュカレトスは在任中、レムノスで死んだ。(欠文)


ヘロドトス著「歴史」巻5、27 から

レームノスを支配下に置いたペルシア王国は、ギリシア人でサモスの人であったリュカレトスがすでにペルシア側の協力者になっていたので、彼をレームノスの統治者に指名したのでした。ギリシア人のリュカレトスを統治者に指名するということは、その住民の多くもギリシア人ではなかったのか、という推測も可能です。ところでリュカレトスの兄弟であったマイアンドリオスについては「サモス(12):マイアンドリオス」で少し書いています。


このあと、BC 510年頃にアテーナイ人ミルティアデースがレームノスを占領した、ということになっています。しかし、私にはこの経緯がどうも、しっくりきません。


さて、ミルティアデースはアテーナイで生まれ育ちましたが、その兄、ステサゴラスがケルソネーソスという、ヘレースポントス地方の町の僭主でした。その僭主ステサゴラスがケルソネーソスに敵対していたランプサコスの人に暗殺されたあと、弟のミルティアデースが僭主に迎えられ、ケルソネーソスに赴きました。このミルティアデースがケルソネーソスから北風を受けながら船でレームノス島まで渡ってみせたのでした。そして、ケルソネーソスをアテーナイ領であると主張し、例の大昔にペラスゴイ人たちが言い放った「北風を受けた船がアテーナイからわがレームノスまで一日で達することができた暁には、レームノスを引き渡そう」という言葉をたてにとり、レームノス島の支配権を主張したのでした。


(左:ミルティアデース)

しかしそれから幾星霜を経て、ヘレスポントスのケルソネソスがアテナイの制するところとなった時、キモンの子ミルティアデスは季節風の時期にケルソネソスのエライウスからレムノスまで船で渡り切り、ペラスゴイ人たちが実現するとは夢にも思わなかった例の神託を思い起させ、彼らに島を空け渡せと布告したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、140 から

上の地図を見ればわかるようにケルソネーソスは、レームノスより若干北で、しかもアテーナイから行くよりかはレームノスに近いのでした。さて、ミルティアデースの布告に対してレームノスの人々がどうしたかといいますと、

パスティアの町の住民はこれに服したが、ミュリナの住民はケルソネソスがアッティカ領であるとは認めず、申し出を拒んだので包囲攻撃をうけ、結局彼らも屈服するに至った。右のようにしてミルティアデスの指揮の下に、アテナイ人はレムノスを占領したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、140 から

ミュリーナの人々がケルソネーソスをアッティカ領(=アテーナイ領)と認めなかったのは正しく、ミルティアデースはアテーナイとは無関係にケルソネーソスの僭主になっていたのであって、アテーナイの政府がケルソネーソスを支配下に置いていたわけではありません。しかし、ミルティアデースはケルソネーソスをアテーナイ領であると強弁して、昔のペラスゴイ人の言葉を持ち出してきて、島の支配権を奪取しようとしたのでした。そして結局、武力でレームノスを支配下においたのでした。その後、ペルシア戦争が終わったあとにはレームノスは完全にアテーナイの支配下になります。


私が疑問に思うのは、それ以前にレームノスはペルシアに占領され、サモス人リュカレトスの支配下にあったはずなのに、上の話ではペルシア人の姿が見えないことです。ここにはいかなる事情があったのでしょうか? 実は上に引用したリュカレトスに関する記事の次に欠文が想定されています。ひょっとするとここに何か事情が書かれていたのかもしれません。上の引用文でリュカレトスは「在任中、レムノスで死んだ。」とあるのは何かの変事があったのかもしれません。


もうひとつ私が疑問に思うのは、このミルティアデースはそれ以前にペルシアの支配を受けていた点です。ペルシア王ダーレイオスのスキュティア遠征にミルティアデースも従軍しています(「ミーレートス(17):ダーレイオスの退却」にその時のミルティアデースが登場します)。ペルシア側の人間が、ペルシアの支配下にある地域を占領しようとするものでしょうか? ただ、「ミーレートス(17):ダーレイオスの退却」に書いたように、危機に陥ったペルシア王ダーレイオスを見捨てて帰ろうと主張したミルティアデースですから、この頃からペルシア王国に対する叛意はあったようです。その流れでミルティアデースはレームノス島を占領したのかもしれません。そして、口八丁手八丁のギリシア人であるミルティアデースですから、レームノス島占領という自分の行為を、ペルシアにとっても益となる行為である、と言い繕ったのかもしれません。