神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア)(8):レームノス的

レームノス島にやってきたペラスゴイ人たちは、アテーナイから追い出されたのでした。そして彼らはアテーナイ人に報復しようとしていました。(しかし、アテーナイとレームノス島は直線距離で240kmぐらいあります。すごい根性ですね。この距離を当時の船で行くのにどのくらいかかったでしょうか? トゥーキュディデースの「戦史」の記事の中に、アテーナイからレスボス島に行くのに「順風にさいわいされてアテーナイを出てから三日目にミュティレーネーに」着いたという記事があります。アテーナイからレスボス島へ行くのとレームノス島に行くのはほぼ同じ距離なのでやはり「早くて」3日かかるようです。)

さてペラスゴイ人たちはアテナイを追われてからレムノスに住みつき、アテナイ人に報復することを念願としていたが、彼らはアテナイの祭礼行事を知悉していたので、数隻の五十橈船を手に入れ、アテナイの女たちがブラウロンで女神アルテミスの祭礼を営むのを待伏せ、その場から多数のアテナイ女を奪うと船を返し、女たちをレムノスへ連れて行って妾として手許に置いた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、138 から

古代ギリシアは完全な男性優位の社会でしたので、ここでいう「ペラスゴイ人」というのは「ペラスゴイの男たち」を意味します。ですので、こんな報復になったわけです。しかし、このような行為がのちに恐ろしいことを引き起こします。

 この女たちは生まれた子供が増すにつれ、子供たちにアッティカ語とアッティカの風習を教えた。それで子供たちはペラスゴイの女たちの生んだ子供とは交わろうとせず、仲間の誰かがペラスゴイの子供に擲(なぐ)られるようなことがあれば、総出で助けにゆき、互いにかばいあった。それのみかこの子供たちは、自分らが子供の世界を支配するのが当然と考えており、大いに羽振りをきかせていたのである。このことを知ったペラスゴイ人たちは集まって協議をしたが、相談している間に彼らは恐怖を覚えだした。この子供らがすでに正妻の生んだ子供らに対して互いに助け合う腹をきめており、猶予なく正妻の子供らを支配しようとしているとすれば、彼らが成人した暁には一体何をしでかすか判らぬと考えたのである。


同上

上の引用で「アッティカ」というのはアテーナイを中心とする地方のことです。それはさておき、ペラスゴイの男たちは、自分たちの子どもたちが自分たちの復讐者になりつつある、と思ったのでしょう。

そこでペラスゴイ人たちはアッティカの女たちの生んだ子供を殺すことに決めた。彼らはこの決定どおりに実行し、あまつさえ子供らの母親たちまで殺してしまった。この所業と、これより以前にトアス王を含めて自分らの夫を殺したレムノスの女たちの所業とから、広くギリシアではすべて無残な行為を「レムノス的」と呼ぶ慣わしになっている。


同上

「レームノス的」というのは、レームノス島で起きたとされる2つの大量虐殺事件に由来する言い方だということです。1つは、神話的な話ですが、レームノスの女たちが島中の男という男を殺した事件で、もう一つは神話的なにおいがだいぶ薄れた伝説ですが、このペラスゴイの男たちがアテーナイ出身の女たちとその子供たちを殺した事件です。


このレームノス的に関連する記事が楠見千鶴子氏の著書「癒しの旅 ギリシアエーゲ海」にありましたので紹介します。

ここを出て少し先へと行けば再び海に突き出た岬がある。その先端、眼下に波打ち騒ぐ海原をみる断崖上こそ「ペタソス」といって「身を投げる」「投げ込む」意味の名で呼ばれ、怒れる女たちが夫の死骸を棄てた所なのだった。古い地名がよく残されているこの国には常々感心してきたが、このときばかりは何ゆえにかと考えてしまった。


楠見千鶴子著「癒しの旅 ギリシアエーゲ海」の「リムノス島 北エーゲ海の孤島」 より


さて、この事件が起きてからというものレームノス島では不毛に苦しむことになったのでした。

ペラスゴイ人が己れの子やアッティカの女たちを殺害してからというものは、穀物は実らず女も家畜も以前のように子を産まなくなってしまった。饑饉と不妊に悩んだペラスゴイ人たちは、現在の饑饉を免れる手立てを伺うためにデルポイへ使者を送った。すると巫女はアテナイ人が適正と認めるとおりに償いをせよと彼らに命じた。そこでペラスゴイ人はアテナイへ赴き、自分らの犯したすべての罪に対し償いをする志のあることを明らかにした。


ヘロドトス著「歴史」巻6、139 から

アテーナイ人がつぐないとして要求したのは、法外なものでした。

するとアテナイ人は市会堂の中に、及ぶ限り贅を尽したソーファをしつらえ、その傍らに珍味佳肴を盛ったテーブルを置いた上で、お前たちの国をこのとおりにしてアテナイに引き渡せといった。


同上

これは要求しすぎのような気がします。それに対してペラスゴイの男たちが答えたのは、以下のようなことでした。

ペラスゴイ人はそれに答えて、北風を受けた船が貴国からわが国まで一日で達することができた暁には、国を引き渡そう、といった。アッティカはレムノスの遥か南方に当るので、そのようなことは起り得ないことを承知していたからである。


同上

デルポイの神託は「アテナイ人が適正と認めるとおりに償いをせよ」とレームノスのペラスゴイ人たちに命じたのですが、それに対して上のような条件を付けてもよいものだったのでしょうか? 冒頭に述べましたようにアテーナイからレームノス島まで船で早くて3日はかかるのでした。そしてアテーナイはレームノスよりずっと南にあります。ペラスゴイ人のいうように北風を受けていたら逆風になり、到底1日ではレームノス島にたどり着けないのでした。ペラスゴイ人たちはもちろん「そのようなことは起り得ないことを承知していた」ので、こんな条件を持ち出したのでした。

この時はそれですんだのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、140 から

これを読んで私は「この時はこれですんだ」の? と少し驚きました。これで何事もなく済んでしまうのならデルポイの神託の権威はどうなってしまうのか、と思ったのでした。ところがそれから400年か500年ののちに、このペラスゴイ人の課した条件が彼らの子孫を苦しめることになるのでした。その話はまた、あとでお話しします。