神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(10):ミュティレーネーの反乱(2)

その後メーテュムナはアンティッサを逆に攻めましたが、アンティッサに迎撃され撤退しました。

かれらが撤兵すると、対してメーテュムネー人も兵を繰りだしてアンティッサを攻撃した。だが城内からの迎撃に遭い、アンティッサ人と傭兵のために打ち破られて多数の戦死者を出し、残りは蒼惶として引き上げた。


トゥーキュディデース「戦史」 巻3・18より

アテーナイ政府は、この年の秋に増援部隊をレスボス島に派遣しました。この増援部隊は到着するとミュティレーネーの周囲に城壁を築いて包囲しました。一方スパルタは、その年の冬に使者をミュティレーネーへ送り出しました。

同冬の終り、ラケダイモーン人サライトスが三重櫓船で、ミュティレーネーに派遣された。かれは船でピュラまで渡ると、そこから徒歩でミュティレーネーにそそぐ川底づたいに進んだ。この川底に接するところでアテーナイ側の遮断壁を越えることができたからでもある。そして看視の眼をかすめてミュティレーネー市内に入ると、市の代表者一同に向かって言った。まもなくアッティカ(=アテーナイを中心とする地方)への侵入が行われると同時に、レスボス救援の指令をうけた四十艘のペロポネーソス船隊が到着する、自分はこれらの知らせを伝え、その他一般的な対策を督励するために、本体に先んじて派遣されてきた、と。そこでミュティレーネー人は士気さかんとなって、アテーナイ人の要求に屈しようという気持をますます少なくした。


トゥーキュディデース「戦史」 巻3・25より


しかし、翌年の夏になっても一向にペロポネーソス艦隊はミュティレーネー近海に現われませんでした。艦隊はミュティレーネーに向かって進んではいたのですが、途中の航路で手間どっていたのでした。ミュティレーネーはとうとう力尽きてアテーナイ軍に降伏しました。アテーナイは反乱の責任者たちを処刑しました。

アテーナイ人は、離叛の首謀者としてパケースのもとから護送された者たちを、クレオーンの提案どおりに処刑した(その数は一千名をわずかに上廻った)。そしてミュティレーネーの城壁を取り除き、軍船を没収した。その後レスボス島市民にたいして年賦金の支払いを課することはおこなわなかったが、メーテュムネー市領を除く三千区劃に分割し、三百区を神殿領とし、残りの区劃にたいしては、抽籤によってアテーナイ市民から植民地主をえらんで派遣した。これらの入居地主にたいしてレスボス島人は一区一年間二ムナーの小作料を納入することによって、耕作がゆるされた。またアテーナイ人は、かつてミュティレーネーの版図にふくまれていた大陸沿岸の諸都市をも奪い、やがてこれらの諸市はアテーナイ人の支配に服することとなった。レスボスをめぐる紛争の経緯はこのような次第であった。


トゥーキュディデース「戦史」 巻3・50より

この時点で、メーテュムナはデーロス同盟参加都市の中で独立を保っている2都市のうちの1つになりました。独立を保っていたもうひとつの都市はキオスでした。


トゥーキュディデースは、スパルタに赴いたミュティレーネー使節に次のように言わせていますが、これはこの時代のエーゲ海に進行している事態をうまく捉えたものでした。

われらが(アテーナイの)同盟戦線に加わったのは、ペルシアの圧政からのギリシア人解放を目的としこそすれ、アテーナイ人の先棒を担いでギリシア人を奴隷化することではなかった。じじつまた、かれらが一同盟国としてわれらの先導をつとめる限りは、われらも進んでその後に従った。しかしかれらがペルシア人にたいする戦鋒を転じて、同盟諸国を己が奴隷に組み従えることに専心しはじめるのと見てから、われらはもはや安閑としていることができなくなった。同盟諸国は票数が多いため一致団結して存立を全うすることができず、次々とアテーナイの隷属国となりはてて、残るはついにわれら(=レスボス島の5都市)とキオス人だけになってしまった。


トゥーキュディデース「戦史」 巻3・10より

このような状況にあって、ミュティレーネーはアテーナイに叛乱することを選び、メーテュムナはアテーナイに従うことを選んだのでした。