神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(13):アテーナイからの避難民

トロイゼーンについて次にお話し出来ることは、ずっと時代を下ってBC 480年の(第2次)ペルシア戦争の時のことです。この時ペルシア軍はクセルクセース王に率いられてバルカン半島の北からギリシアを攻めて来ました。トロイゼーンは5隻の軍艦を派遣して他のギリシア諸国とともにアルテミシオンでペルシアの海軍と戦いました。一方、自分たちの領土にはアテーナイからの避難民を受け入れました。というのはクセルクセース王の戦争目的の1つはアテーナイの占領であることが明白だったからです。


このアテーナイからの避難民受け入れについては、1959年にトロイゼーンで見つかった碑文が当時の状況を説明してくれます。この碑文は残念ながらペルシア戦争当時のものではなく、それより200年ほど後のものであると推定されていますが、おそらくは当時のアテーナイの評議会と民会の決議内容を伝えたものだそうです。


(右:トロイゼーンで見つかった碑文)


この碑文については藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」にその説明と、碑文自体の翻訳が載っていました。次に示すのはこの碑文についての説明です。

この碑文は、書体などから紀元前三世紀のものとされており、その頃おそらく歴史記念碑としてトロイゼンに建立されたものである。従って、この決議の内容は歪曲または捏造されたものだとの批判的意見もあるが、私は大局的に見て、この決議内容は事実だと考える。それにしても前480年アルテミシオン海戦の頃の非常事態下に決議されたことが、そのまま正確に刻まれたわけではなく、次々に決議されたことが一回の決議であるかの如くに編集されているものと考えられる。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」より

次に碑文の翻訳の一部を見てみましょう。

評議会および民会により決議された。
フレアリオイ区民、ネオクレスの子テミストクレスが動議した。
 ポリスは、アテナイを守護し給うアテナおよび他の神々すべてに委ね、国土のためにバルバロイを防ぎ守って頂くことにする。全アテナイ人およびアテナイに居住する外人は、国土建設の祖(二十字欠)トロイゼンへ子供や女たちを疎開させること。また老人や動産はサラミス疎開させること。財務官たちと女神官たちとはアクロポリスに残留し、神々の聖財を守護すること。その他のアテナイ人全員と壮年期にある在留外人とは、艤装された二百隻の艦船に乗組み、自分たち自身および他のギリシア人の自由のために、ラケダイモン人、コリントス人、アイギア人その他、国難を分ち合わんと欲する人々とともに、異国の軍勢を撃退すること。



藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」による引用を孫引き


(上:碑文の一部)


ここで

アテナイ人およびアテナイに居住する外人は、国土建設の祖(二十字欠)トロイゼンへ子供や女たちを疎開させること。

とありますが、「二十字欠」のところが残念です。私はここに何と書いてあったのか知りたいです。「国土建設の祖」というのはおそらくテーセウスのことでしょう。もしそうだとすると「国土建設の祖[テーセウスの生誕の地]トロイゼンへ」と書いてあったのではないかと想像します。

  • テーセウスの前にはアイゲウスがアテーナイ王であったから、「国土建設の祖」をテーセウスのことだと推定するのはおかしい、と感じる方もおられるかもしれません。しかしプルータルコスは「テーセウス伝」でテーセウスのことを「『歌に響く美しいアテーナイ』の建国者」と呼んでおり、彼がアテーナイを一層大きくしたことを述べています。ですので「国土建設の祖」をテーセウスと考えてもよいと思います。

なお、上の引用文で「全アテナイ人」というのは「全アテナイ人男性」の意味に採らなければなりません。古代ギリシアは徹底した男社会でした。


さて、女性と子供はトロイゼーンへ、老人はサラミースに疎開させられ、壮年男子は「異国の軍勢を撃退する」ために軍船に乗組んだのでした。のちにトロイゼーンでは、この時の避難民を記念した石像を作成してアゴラ(広場)に設置したことをパウサニアースは記しています。

アゴラの列柱の下に女性たちの像が設置されています。彼女たちとその子供たちは両方とも石でできています。これらは、アテーナイ人がアテーナイから避難させ、陸路によるペルシアの攻撃を待たないことを決意したときに、アテーナイ人が安全を保つためにトロイゼーン人に与えた女性たちと子供たちです。それらは、特化された類似性を持っており、全ての女性のものではありません。実際のところ、彫像は多くはなく、高位の女性だけでだからです。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.31.7より