神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(5):ヒッポリュトス(1)

若いテーセウスが父親でアテーナイ王でもあるアイゲウスに会うためにトロイゼーンから旅立ったところで、テーセウスの物語はトロイゼーンから離れてしまいます。しかし、やがてテーセウスの息子のヒッポリュトスがトロイゼーンに送られてきて、このヒッポリュトスの物語がトロイゼーンを舞台にして始まります。


ヒッポリュトスの母親は、勇猛な女たちだけの部族であるアマゾーン族の一員で、その名はヒッポリュテーともメラニッペーともアンティオペーとも伝えられています。名前がはっきりしないということは、要するに伝説の中であまり重視されていなかったということのようです。このヒッポリュトスの母親がその後どうなったのかよく分かりません。


とにかくテーセウスはクレータ島のクノーソスの王デウカリオーンの姉か妹に当るパイドラーを妻に迎えることになりました。テーセウスはこのパイドラーとの間に男の子が生れたらその子にアテーナイ王を継がせようと考えました。そしてそうなった時、ヒッポリュトスをアテーナイに残して異母弟の支配を受けさせるよりかは、トロイゼーンに送って曾祖父ピッテウスのあとを継がるほうが良かろうと考えました。そういう訳でヒッポリュトスはトロイゼーンに送られたのでした。ヒッポリュトスはピッテウスが養育し、やがて青年になりました。彼は狩猟が好きで、狩と動物の女神アルテミスを崇拝し、その反動からか、愛の女神アプロディーテーに敬意を表することを避けていました。恋愛に興味がなかったということです。

(上:狩りと動物の女神アルテミス)


ヒッポリュトスのこの性向をエウリーピデースの悲劇「ヒッポリュトス」では以下のように描いています。

ヒッポリュトス おれは色恋に染まぬ人間だから、あの神様(=アプロディーテー)には遠くからご挨拶をしておこう。
老僕 しかしこの世では、勢いのある貴い神様でございますよ。
ヒッポリュトス 暗闇で霊験あらたかな神様などは、私は大嫌いなのだ。
老僕 しかしまあ若様、神様は大切になさらねばなりませんぞ。
ヒッポリュトス 神様でも人間でも、好き不好きのあるのはいたし方あるまい。
老僕 そうわからぬことばかり申されて、めったなことがなければよいが。


エウリーピデース「ヒッポリュトス」 松平千秋訳 より

この老僕の「めったなことがなければよいが」という懸念は現実になります。

アプロディテ (前略)
ヒッポリュトスめがわれに向って働いた無礼の数々は、今日この日きっと罰してやりましょうぞ。前からいろいろ準備を重ねてきたゆえに、さほど手間はかかりはせぬ。と申すは、以前ヒッポリュトスが、(エレウシスの)尊い秘儀に与ろうと、ピッテウスの館を発って、パンディオンの国(=アテーナイのこと)に参った折に、父王の貴い妃パイドラが彼を見初めて怖ろしい恋の焔に身を焦がすにいたったのは、すべてわが企みによるのである。
(中略)
しかしテセウスがパラスの子ら(=テーセウスの敵対者であった。テーセウスの従兄弟にあたる。)を討った後、その血のけがれをはらうため、一年の間故国をはなれようと、妃とともにケクロプスの地(=アテーナイのこと)をはなれ、この国(=トロイゼーン)に移り住んでよりは、憐れにも妃は恋の棘に胸を刺し虐(さいな)まれる想い、まわりにその苦しみを知るものとてなく、ただ人知れずもだえ泣いて身を細らせているばかり。


同上

パイドラーは、義理の息子が恋しくて仕方がなくて悩んでいました。彼女はそのことを誰にも話さずにいたのでしたが、彼女の乳母が言葉巧みにパイドラーの心の内を聞き出してしまいました。そしてこのおせっかいな乳母はパイドラーの気持ちをヒッポリュトスに告げてしまいます。ヒッポリュトスは驚き、拒絶します。そのことを知ったパイドラーはもう生きていられないと思うのでした。

(上:パイドラーと乳母)

乳母 (前略) なるほど私にも考えの浅いところがございました。でも姫様、今からでもまだ助かる道はございます。
パイドラ もうなにも聞きたくありません。前だってお前は私に間違ったことをすすめてくれて、とんでもないことを始めておしまいだった。さあ、とっとと引き退って、おせっかいはやめておくれ。私のことは自分で立派に片をつけてみせます。
(中略)
コロス(=合唱隊)の長(=この劇の中ではトロイゼーンの女性となっている) ではお妃様はいよいよ容易ならぬお覚悟でございますか。
パイドラ 私は死のうと思います、ただどうして死ぬかを考えてみるつもりなの。
コロスの長 まあ、そんな恐ろしいことをおっしゃらないで。


同上

ことはこれだけでは収まりませんでした。死に際してパイドラーはヒッポリュトスを破滅させるような遺書を残したのです。