神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア(10):パルメニデース(2)

「昼」(真実の世界)と「夜」(通常の人間の認識の世界。迷妄の世界)とを分かつ門を通って、パルメニデースを載せた馬車は「夜」の世界から「昼」の世界へ進みます。

さてここに女神のいまして ねんごろに私を迎え わが右の手を
その御手にとって 私に言葉をかけて次のように語りたもうた。
「おお、若者よ、手綱とる不死の馭者たちにともなわれ
馬たちに運ばれて わが館まで到り着いた汝よ、
よくぞ来ました、この道を来るように汝を送り出したのは、けっして
悪い運命(さだめ)ではない――


筑摩書房世界文学大系4 ギリシア思想家集」の「パルメニデス」 藤沢令夫訳より

「昼」の世界でパルメニデースを迎えるのは、ある女神です。なぜかこの女神の名前をこの詩では明らかにしていません。私は、この詩はギリシアのエレウシスの密儀をなぞっているのではないか、と思いました。というのは、この密儀での主要な女神たちは大地のデーメーテールとその娘で冥界の女王ペルセポネーなのですが、この女神たちの名前を言うことを禁忌としているらしく、名前の代りに「女神たち」と呼ぶことが多いからです。おそらくこの詩のここに登場する女神は、名前を言うことを憚られる畏き女神なのでしょう。


(右:女神デーメーテール

この女神は続けて言います。

げにこの道は 人間の踏み歩く道の届かぬところにある。
いなそれは 掟と正義のなしたこと。汝はここで すべてを聞いて学ぶがよい――
まずはまるい「真理」の ゆるぐことのないその 心も、


同上

このあと女神は、若きパルメニデースに対して真理を教えるのですが、それはあっけないほど単純な真理でした。それは「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」という真理です。まったく当たり前の、同義語反復のような言明です。しかしこの文章をよく考えると段々難しくなっていきます。まず、あらぬものはあらぬので無は存在しないということになります。すると真空という概念は存在しないことになります。


現代の私たちならば「真空」は存在するよ、と言うでしょう。しかしパルメニデースはきっとこう反論するでしょう「真空とは何もないということなのか? もし、そうならば『ないものがある』ことになって、論理的におかしい。ゆえに『真空は存在しない』。」と。パルメニデースよりあとの時代になりますが、アリストテレースもまた同じような理由で真空の存在を否定していました。真空の存在が認められるようになるのは、ずっとのちの1643年イタリアの科学者トリチェリーが水銀を使った実験で真空の実在を証明した時からでした。さてパルメニデースの反論に対して私たちは「真空には物質がなくても空間があるのだ」と答えるかもしれません。すると空間はあるものなのでしょうか? 空間は物質ではありません。しかしあるものです。いや、空間はものではないのでもの言ってはいけないのでしょう。すると空間については何と言えばよいでしょうか? 「空間は存在する」と言えばよいのでしょうか? するともの存在は異なるのでしょうか? そもそも存在とは何なのでしょうか? 考えていくと分からなくなります。パルメニデースは存在論」という冒険に私たちをいざないます。


上のような疑問がありながらも、ここまではパルメニデースの言いたいことがまだ何とか分かるのですが、次にパルメニデースは無から有は生まれない、有は無にならない、と言います。よって生成とか消滅ということはあり得ない、と言います。生成消滅もないので変化も存在しない、とも言います。このあたりからは私にはパルメニデースの真意が分からなくなります。確かに無から有は生まれないでしょう。しかしあるものが別のものに「変化する」ことはあるのではないでしょうか。あるいは私はパルメニデースの言うことを理解しそこねているのかもしれません。さらに、パルメニデースはものが動くということ、つまり運動、も否定したのでした。これについてはパルメニデースの弟子のゼノンがいわゆる「ゼノンのパラドックスで述べています。その中のひとつはアキレスと亀の話です。足の速いアキレス(アキレウス)が前をのろのろ歩いている亀を絶対追い越すことが出来ない、という話です。


こうしてパルメニデースの理論は、現実とかけ離れたものになりました。パルメニデースによれば我々が現実と思っている認識のほうが間違っている、というのですが、これには多くの反論があるでしょう。パルメニデース以降のギリシア哲学は、パルメニデースの学説に対してどう反論するか、ということが主題のひとつになったということです。